白百合を抱くハイペリオン(2)

使徒の一人であるペトロをその起源とし、キリスト教の総本山として世俗に対し威容を誇る教皇庁はサン=ピエトロ大聖堂。

多くの聖職者が出入りするこの一大宗教都市とも言える場所の中でも、取り分け限られた人間しか立ち寄らない区域。
そのいずことも知らぬ場所のいずことも知らぬ部屋で、何人かの司祭と思わしき僧服に身を包んだ男達が円卓を囲んでいる。

いずれも聖職者としては比較的若い。
中でもそのうちの一人は緋色の衣──枢機卿位にある事を示す貴色を纏っていた。

「奴の独断専行は今に始まった事ではないが、さすがに今回の件については度が過ぎている」
「アイツ、フランス王との約束を反故にしやがって。
俺達の面子にも泥を塗りやがった」
「ただでさえ僕らの存在を煙たがっている聖職者は多いのにね」
「それだけではない。
彼女を確保出来なかった事で、我々は何より貴重な〈知識の源泉〉に触れる機会を永久に失った」

それぞれがここにはいない「誰か」について怒りをあらわにし、あるいは失った「何か」の大きさを思って嘆いている。

「やはり奴の扱いについて、そろそろ真面目に考える頃かもしれないな」

緋色の衣を纏った青年が呟いた。

「我々〈神の御剣〉はあくまでも神の子たる善良なキリスト教徒の為に神秘を実践する組織だ。
人の脅威を討つべき者が、人の脅威となるべきではない」
「まあ、建前っちゃ建前だけどね」
「しかし、たとえ建前に過ぎなくても、最低限遵守しなければならない規則を敷かなければ、組織の秩序は崩壊する」

同席者の明け透けな意見を窘めてから、若い枢機卿は宣言した。

「良い機会だ。
今後、我々にとって真に価値があるのは〈彼〉か、それともやはり奴なのか……見極めようではないか」

沈黙。
それは彼等にとって「依存なし」という暗黙の了解が成立した事を示していた。

◆◆◆

都をおわれ、長らく辛酸を舐める日々を送っていた王太子シャルルの下に、伝説に謳われる奇跡の乙女──ジャンヌ・ダルクが現れてより2年。

尊き聖女に導かれた軍勢により成し得た要所・オルレアンの解放を経て、悲境の王太子がランスでの戴冠を果し、フランス王シャルル七世として即位した後も、王国の利権を巡る策謀と闘争は未だ終わるところを知らず。
人々思惑に翻弄され虜囚となった乙女が、炎の中へと消えてからも、フランスが真の栄光を取り戻す為の戦いは続く。

──そう、〈彼〉にとって真の戦いが始まるのはむしろこれからである。

◆◆◆

「君は随分と軍備に金をかけているのだな」

──1429年6月。
マラドゥルリーの地に揃った勇壮にして華麗な騎士団を目にして、リッシュモンは思わず感歎の声を上げたものだ。

「人材もまた資産です。
技術と才能は時間をかけてつくられるもの。一朝一夕で最強の軍団を作る事は出来ません。経験を金で買う事は出来ないのですから」

さも当然と言うように。青年は気負う事無く目の前の大元帥に言った。

「私が彼等の中に宝を見出し、それに正当な対価を支払うからこそ、彼等もまた誇りを持って私の期待に応えてくれる。
人は誇りと共に在る時、決して光を見失う事は無い。
今のフランス軍に最も足りないのは、人としての深い誇りとそれに伴う強い意志です。
我々、上に立つ者は、己を慕ってくれるものに、パンと娯楽ばかりではなく、人としての誇りを与えなければならぬのです」

そんな考え方をする人間に会ったのは──ましてやそれを堂々と自分の前で口にした人物は、〈彼〉が初めてだった。

「……閣下は随分レイ男爵を評価されているようですが、それは如何なる理由で?」

執務室を出る際、自分に長く付き従う側近が不思議そうに問いかけるのに、リッシュモンは微笑んで、

「この私の話を夢物語だと嗤わずに耳を傾けてくれる、唯一の友だからだ」

側近が目を丸くするのにも構わずに、答えたのだった。

──交わした言葉は、まだ昨日の事のようにはっきりと覚えている。

〈奇跡の乙女〉に率いられた王国の主力部隊が、劇的な勝利の興奮冷めやらぬまま、ボージャンシーでの包囲戦を開始した頃。
噂を聞きつけたリッシュモンは、彼らと合流すべく独断で兵を招集し、その運命の地へと向かった。

当時、王国軍最高司令官の地位にあったものの、政敵であるドゥ・ラ・トレモイユとの対立に敗れ、失意のまま宮廷を追われていた大元帥は、パルトネーの地で日々ままらなぬ天運に歯噛みしながら事の推移を伺っていた。
しかし、今この王国の大事を前に、とうとう黙して見守る事に耐えられなくなった彼は、たとえ王命に逆らう事になっても、本来在るべき戦場で己の力を尽くす事を望んだのであった。

私財を投じて急ぎ揃えたブルトン人とポワティエ人からなる弓兵800、槍兵400を超える精鋭部隊による進軍──このリッシュモンの動きに、すぐさまトレモイユは王の名の下、武力を用いてでもこれを阻止するよう、ジャンヌをはじめ王国軍の指揮官達に命じた。
しかし、王命を遵守しようとしたのは前線の総責任者としての立場がある甥のアランソン公ぐらいのもので、他の軍人達は名将の戦場への帰還を大いに歓迎した。

そして。
件の〈乙女〉と会い見えるのを心待ちにしながら到着したリッシュモンと、彼に忠誠を誓う麾下の兵達を出迎えに現れた軍勢の姿に、大元帥の度肝は抜かれた。

滋養のある餌を与えられ、よく訓練されているのだろう──手入れの行き届いた黒馬に跨った指揮官以下、身を包んでいる揃いの制服は煌びやかでありながらも上品で、一目で分かる見事なまでの仕立ての良さである。
槍や剣、具足と言った装備一式、どこをとっても相当な金がかけられているのは明らかで、堂々とした気風はどこの公爵家の親衛隊かと見紛うほどだ。

「助勢、歓迎いたします。リッシュモン伯。
名将の誉れ高い閣下と轡を並べて戦う。我々軍人にとってこれほど心強いものはありません」

一体、国庫の逼迫した王家のどこにこんな部隊を率いるだけの余裕があったのか──半ば呆れた表情を見せながら国王の姻戚である伯爵が思ったところで、馬上の指揮官が面頬を外した。

「……ああ、君が『あの』レイ男爵か」

明らかになった美貌の持ち主を認めて、リッシュモンは合点した。

ブルターニュ公国からアンジュ公国にかけて広大な領地を持ち、複数の城塞や館をはじめ、抱える莫大な富は王家のそれすら軽く上回ると言う、フランス随一の大資産家。その血筋は英傑デュ・ゲグラン元帥にも繋がるという軍属の名門、モンモランシー=ラヴァル家の現当主である。
アンジュ公家に仕え、国王の義母であるヨランド・ダラゴンの信任も厚い老将軍、ジャン・ド・クランの薫陶を受けた才気溢れる若者の噂は、リッシュモンも何度か耳にしていた。

何かと自分の足を引っ張りたがるシャルルの腰巾着、ドゥ・ラ・トレモイユは彼の叔父にあたり、昨今、軍人としての頭角を現してきているこの見目麗しい甥を、いずれは自らの手駒として、リッシュモンを退かせた後の元帥位に据えるつもりでいるとかいないとか。

ふむ。それにしても──

青年の全身を視線で一撫でした後、リッシュモンは自然と溜息が漏れるのを堪えられなかった。

話には聞いていたが──まさか、ここまでのものとは。

陽光を弾き、しっとりと艶やかに輝く黝い髪。ここまで深い色合いは彼が住まう北フランスでは珍しい。時折光の加減で青みがかって見えるその様は実に神秘的だ。
陽光の下、肩口に零れ落ちる長い髪を抱く白磁のごとき麗貌の中に納まった、大粒の宝石を思わせる碧の瞳。涼しげな視線は今も真っ直ぐにリッシュモンを見つめている。

そんな青年の瞳に映るリッシュモン自身、一度、宮廷に参内すれば、貴婦人達の注目を集めずにはおられない極めて端正な顔立ちの持ち主なのであるが、この全身から匂いたつ、後を引くような影のある「色気」というものに関しては、目の前の青年の足元にも及ばないだろう。

長身ではあるものの、身体の線も細い。少年と青年の極めて微妙な境でその時は留められているようだった。

──成程。女と言えば女、男と言われてもだからどうだという感じではあるな……おかしな気を起こす連中がいるのも理解出来なくはない。

しかしだからと言って、「女々しい」という言葉は不思議と連想されなかった。中性的で優しげな面差しの中にも、秘めたる強靭な精神力が感じ取られるせいだろう。
そうでなければ最前線で戦い続けてはこれまい。代々軍人を輩出している家門の教えは厳しいと聞く。
中身は間違いなく『漢』だ。当然といえば当然だろう。

……そういえば、昔、ラ・イールが、「あの名門を継いだのがこんなお姫様だったとは驚きだ!今日はわざわざ戦場にまで未来の旦那様を探しに来たのかい?可愛い顔して、着いて早々、貞操奪われちまっても知らねーぞ!」などとからかって酷い目にあったと言っていたな……

「あの顔でナニなアレは詐欺だ。忘れたくても忘れられない」と遠い目でブツブツ呟いていた赤毛の巨漢からそれ以上の事の経緯を聴くのは憚られた為、詳細を知る事は出来なかったが、察するにやはり知るべきでなかったのかもしれない。

「──フランスの為、私は私の役目を果しに参った。
私の陛下とフランスに対する忠誠に翻意は無い。
君達が私と同じ気持ちであるのなら、神の御使いであるという件の乙女に会わせてもらえるだろうか」
「無論。喜んで」

内心、百戦錬磨の傭兵隊長に微妙な同情を感じつつも、そこは政治にも明るい智将である。
リッシュモンはあくまでもこの天界の住人然とした使者に年長者らしい威厳を保ったまま、ごく紳士的かつ理性的な応対に徹するのだった。

◆◆◆

「ジャンヌ。
貴女は私と戦うつもりだと聞いた。
私は、貴女が真に神の御使いであるかどうか、知るすべを持たない。
だがもしそれが真実であるのなら、私が貴女を恐れる事は無い。
何故なら、神は私の善意を御存知なのだから。
またもし、貴女が悪魔であるのなら、なおさら、私は貴女を恐れますまい」

少女の人となりを確認する為の幾つかのやり取りの後、他の多くの軍属がそうであるように少女の聖性を確信するに至ったリッシュモンは、無事ジャンヌの指揮下にある王国軍の本隊に加わった。

──確かに魅力的な人物だ。

実際に『ロレーヌの乙女』と会話を交わしてみて、リッシュモンもまたどうしようもなく少女に惹かれている自分を認めざるを得なかった。
この少女と使命を果たせるのであれば、たとえ宮廷で笑い者にされ屈辱を味わう事になろうとも、憎らしい奸臣たるトレモイユに頭を下げてさえ良いとすら思えた。
凛とした佇まいの中にも、内に秘めた大きな母性を感じさせる、まさに多くの人々が想像の中で思い描いたであろう『聖女』の姿そのものだ──やや出来すぎている、とさえ思えるが。

オルレアンでの奇跡を彼女と共に経験したものは、今や完全に彼女の信奉者である。
特に彼女の予言によって命を救われたというアランソン公は、何くれと彼女の世話を焼きたがり、荒くれ者の傭兵集団であるラ・イールやザントライユの部隊で剣を振るう猛者共も、ひとたび乙女に微笑まれれば猥談で盛り上がっていた口を閉ざして相好を崩す有様だ。

──やれやれ、我々フランス軍の精神的支柱は、こんなか弱い乙女一人が担わねばならぬのか。

本来、前面に出て軍を鼓舞し彼等を率いるべきである王太子シャルルは、トレモイユら穏健派の侍従達に囲まれて身動きが取れぬまま後方に控えたままだ。
同情すべき部分も少なからずある青年ではあるが、正直な所、ここに至って覚悟を見せないのは情けない。

対して、小さな背中に人々の期待を一身に背負い、希望への道を切り開こうとしている少女。
自ら剣を振るう事はなくとも、仕えるべき主君から授けられた軍旗を堂々と掲げ、積極的に最前線へと立っている。
実に勇ましい事であるが、彼女が馬から降りる度、安堵するように一息吐く事をその側近から聞き及んでいる。

リッシュモンは人知れず嘆息する。
──いくら見た目から受ける印象よりも遥かに賢く、意志の強い人間であったとしても、彼女を理解し支える者がなければ、そのうち潰れてしまうだろう。
誰もが彼女に救世主の姿を重ね、それ以前に一人の少女であるという事を忘れてしまっている。

長らく苦汁を舐め続け、瀕死の様相を呈していたフランスにとって、オルレアンでの勝利は薬としてあまりに効きすぎたのだ。
過剰な期待は、ほんの小さな失敗ですら、大いなる悲劇として変じかねない。
あれだけ多くの人に慕われ囲まれているというのに、リッシュモンの目には、どこか聖女の姿は孤独に見えた。

フランスを支える彼女の心を支えるのは、一体何なのだろう。
聖女と共にあるのは、本当に神と天使だけなのだろうか。

出来る事なら、自分がこれからも支えてやりたいものだが──

決して楽観視しきれないフランスと少女の今後に思いを巡らせながら、陣中を歩いていた彼女の姿を目で追っていると、少女を見る目が少々熱を帯び過ぎていたのか、ちょうど通りがかった甥であるアランソン公に訝しげな視線を向けられる。

何だその目は。
心配するな、お前と違って下手をすれば親子ほど年の離れた娘に懸想をするつもりは毛頭ない。

かと言って、あの甥に少女を任せるのも正直リッシュモンとしては不安であった。
軍属の間で人望のあるアランソン公は、将来トレモイユに目を付けられて、自分と同じように宮廷から遠ざけられる可能性が高い。
ラ・イールやザントライユも気のいい連中ではあるが、宮廷での立ち回りは決して得意な面々ではないだろう。

「……やはり君が適任だな」
「は……?」

駐屯中の騎士団が使用している練兵場。
そこへ何の報せもなく、一人ふらりと現れた元帥の姿に驚いた若い男爵に向かってリッシュモンが呟く。

「君はそもそもトレモイユ卿とは身内になるわけだし。祖父君からの繋がりでヨランド様も期待をかけているとか。
何より軍属にしては思慮深いし誠実だ。教会受けも悪くない。
個人的にはもう少し賢しくなった方が上手く世の中を渡っていける気もするが……まあそこは経験を積めば嗅覚もつくだろう」
「閣下……一体、何をおっしゃっているのでしょうか……」

ただでさえ、尊敬する先輩軍人による突然の訪問に困惑を隠せずにいる青年に、伯爵は端正な顔に魅力的な笑顔を浮かべながらさらりと言う。

「ああ、いやなに。
私が去った後に『ロレーヌの乙女』や軍を任せられるのは君しかいないと思ってな。
ジル・ド・レイ元帥か……なかなか良い響きではないか」
「な……
げ、元帥…… !? 私が !?
何を馬鹿な事をおっしゃっているんですか!冗談にしても意地が悪過ぎますよ、伯爵!」

一瞬、呆気にとられた後、慌てて男爵はありがたくも突拍子もない伯爵の言葉を受け止めきれずに否定した。

「そうかな?君はなかなか切れ者だと他の武官からも聞いているが」
「そんな……私の軍才など、伯爵の慧眼と比べたら見劣りするばかりで……」

「男爵様ー!」

そんな男達の会話に、戦場には不似合いな明るい少女の声が割って入る。

「男爵様ったら!私とのお約束をお忘れですか?
お時間になっても一向に迎えに来て下さらないので、私から来ちゃいましたよ!」

大仰に小さな肩をいからせて、頭一つ分以上高い所にある青年の顔を見上げる『ロレーヌの乙女』。
先日、兵士達を前に弁舌を振るっていた神々しい〈聖女〉とは違い、恨めし気な目で後見人になっている騎士を見上げる少女は、年相応の愛らしさを感じさせる。
一方男爵はというと、戦場では勇猛果敢で鳴らしているにも関わらず、小娘一人に恐縮しきりだ。
しかし、その目元はよく見ると楽しげに笑っている。あの超人めいた男がこれほど穏やかな表情をするのだ。目の前の少女に対しては。

……まあ、ようするに二人はそういう関係なのだろう。互いに意識しているかどうかは分からないが。
ほんの短いやり取りの中で、リッシュモンは聖女と騎士の間柄を何となく察したのだった。

「申し訳ない乙女よ。約束もなく訪れた私が悪いのです。どうか彼を責めないで頂きたい」
「あら、伯爵様……!こちらこそごめんなさい。
二人で次の作戦のお話をされていたのですか?」
「いや、そんな大したものでは……それよりジャンヌ、男爵とは何を?」
「馬術と槍の稽古をつけて頂くお約束だったのです。
武器の握り方一つ知らないくせにと馬鹿にされたのが、私、悔しくて……」

オルレアンの勝利を経て、彼女が〈本物〉だと感じ入った兵士は多かったが、あくまでも女に従うのを良しとしない者も中には存在していた。
他愛もない陰口に過ぎないが、真面目に受け合うあたり、この聖女の気性の真っ直ぐさが見て取れて、リッシュモンには好ましかった。

「なるほど。
では、その稽古、私もお付き合いしてもよろしいですかな?乙女よ」
「は、伯爵 !? 」
「なんだ、不満かね男爵。
自分ばかり乙女に良い所を見せようと?
それとも何か?私ではまったく君達若者の相手にはならないとでも?」
「そ、そんなことは決して……むしろ恐縮です」
「では決まりだ。
さあ、ジャンヌ。三人で心無い事を言った連中に目に物見せてやりましょう」

茶目っ気たっぷりに片目を閉じて目配せする王国軍最高司令官に、

「まあ、嬉しい。伯爵様が加われば百人力ですね。
私頑張ります……!」

ジャンヌも無邪気な笑顔で答えるのだった。

……結局、その稽古の中身はと言えば、男爵と伯爵の模擬試合の方が注目の的になってしまい、期待していた聖女には悪い事をしてしまったが……彼女は彼女で楽しんでいたように見えたので、結果的には聖女を満足させる事は出来たのだろう。

〈聖女〉ジャンヌが駆け抜けた短い栄光の時間の中の、更に限られた幸せな一時。
その断片を、リッシュモンも確かに共有していたのだった。

◆◆◆

ジル・ド・レイ元帥の誕生──リッシュモンの予言は冗談でも何でもなく、ほどなくして現実のものとなった。

ジャンヌ・ダルクとアルテュール・ド・リッシュモン、一つの時代に並び立つ二人の英雄の奇跡ともいえる邂逅により、ボージャンシーに展開していた英軍は降伏し、続いてパテーの戦いでフランス軍は決定的な勝利をおさめた。
だが、それでもなお、シャルルは大元帥の宮廷への復帰を頑なに認めなかった。

フランスの今後を想い、ジルやジャンヌを筆頭に、共に戦った諸将はシャルルと大元帥の仲を何とか執成そうと尽力したが、王太子は「リッシュモンがランスに同行するぐらいならば、戴冠しない方がマシだ」とすら言い切った。

また随分と盛大に嫌われたものだと──トレモイユの思惑通り、無念のうちに再び領地へと戻るしかなかったリッシュモンの後を引き継いだのは、やはりジル・ド・レイであった。
あのいけ好かない侍従長の身内とはいえ、男爵の軍人としての能力は間違いない。自分が留守の間を任せても英軍相手に下手を打つ事はないだろう──自らの軍権が剥奪されたにも関わらず、その采配を特に不満に思う事もなく、自分の代わりに憤慨する部下を宥めながらリッシュモンは思った。

戴冠式に際して、王国軍最高司令官が担うべき王の為の聖油瓶を掲げ持つ役目を、この頭角目覚ましい青年は見事に果たし、フランス第一の騎士となった。
式はブルゴーニュ公や自分の出席は無かったもののの、壮麗で堂々としたものであったという。
その中心にあった当人はと言えば、「伯爵に申し訳ない……」と常にこぼしていたらしい。彼とて、王の勝利に貢献しているのだから、もっと誇っていいものを。

しかしながら、男爵がリッシュモンに向ける畏敬の念は本物だったらしく、彼は伯爵がパルトネーに退いてからも、その教えを乞う書簡が届いた。
最も、当初こそ男爵が伯爵の意見を伺うという形をとってはいたものの、書簡の往復が重なるうち、次第にそのやり取りの密度は増していき、二人はほぼ対等に軍政についての意見を交換するようになっていた。

戦場を己の生きる場所とする者達の多くが、学問を疎かにしがちな中で、青年の知識は不可思議な程に深遠であった。リッシュモンは時折、自分は軍人ではなくパリ大学の教授とでも話しているのであろうか、と思う事さえあったが、澄まし顔で机上の空論を語る学者達とは違い、彼の言葉はきちんと知識を現実に落とし込んだ上で現状を俯瞰しながら語られる人の意志と血の通ったものだった。

「私の知識など、所詮、師父の受け売りに過ぎません」

本人の言葉は相変わらず謙虚なものであったが。リッシュモンとしては正直、粗暴で知られる彼の祖父ジャン・ド・クランがここまで孫に対する教育に熱心だったことに驚き、感謝するしかなかった。そして、私腹を肥やす事しか頭にないトレモイユの子飼いにしておくにはあまりに惜しい才能だと思わずにはいられなかった。

何としてもこの男を自分の傍に置いておきたい。
彼の存在は自分とこれからのフランスには絶対に必要だ──文面を通して青年の人物像に触れるにつれ、リッシュモンは強く考えるようになっていた。
二人の意見は面白いほど合っていた。
そして特に未だ胸の内に温めているのに過ぎなかった常設軍についての構想が互いの文面から出た時に、彼のその想いは頂点に達した。

今のフランスの混乱を治め、政情を安定させる為には王権を強くするしかない。
その為の一歩となるのが、現在のような危急の都度、従属する貴族の騎士団や傭兵達を召集するような形ではなく、王がその名の下、直接支配・管理する訓練された兵士達による常設軍の設立だった。
封建制度とこれによって既得権益を守られている貴族の在り方を真っ向から問う計画であるが故に、リッシュモンでさえこれまで実際に口に出した事は無い。ある意味禁忌とも言える提案。
例え口にしたところで狂人の戯言だと、一笑に付されかねないそれに、青年はかつてのローマ帝国を例に挙げて賛同した。

──ああ、間違いない。とうとう自分はここに成すべき天命と真の友を見つけた。

トレモイユとの小競り合いなどの為に、時間と兵力を割くぐらいならば、一刻も早く在るべき戦場に戻りたい。
この青年と見果てぬ夢に挑んでみたい。
今のフランスには聖女の輝きもある。時代が、世界が変わる機会が訪れているのだ。この手で成し遂げたい。

しかし。

神は気紛れである。しかるべき時に備えながら中央への復帰を待ち続けるリッシュモンの期待を裏切るかのように、情勢は流転する。
リッシュモンに続き、アランソン公に始まり多くの主戦派の将軍達を宮廷から退けたシャルルは、とうとうジャンヌや男爵の存在も疎ましいものと看做すようになったのだ。
戴冠式に花を添えた騎士と聖女の二人は引き離され、主戦派が力を失う中、シャルルはブルゴーニュ派との休戦交渉に入る。
王軍の撤退により一度は勝利と解放の美酒に酔ったシャンパーニュ地方の都市は恐怖のどん底に陥り、各所から救援を乞われた聖女は王命に逆らい戦場へと赴き──そして。

「コンピエーニュでジャンヌがブルゴーニュ側に捕えられました。
残念ながら陛下に彼女を救出する意思はありません。私が行くしかないようです」

彼の部下が持ってきた最後の手紙にはそう記されていた。

「きっと誰もが、そして貴方も私を愚かだと思われるでしょう。
情勢の機微を読まない主戦派が暴発し、捕虜になったに過ぎない。和平交渉を前に小娘一人の為に軍を動かし、波風を立てるべきではない。
確かにそうかもしれない。
だが、力無い人々があげる悲鳴に心を痛め、これを救おうとした彼女の良心を私は責める事が出来ない。
何故なら、そんな彼女だからこそ、私は愛しているのだから」

少女に対する想いを、最早青年は隠す事は無かった。

「伯爵、尊敬してやまない貴方に認められた事は、私にとって望外の喜びでした。
出来れば、今後も貴方の傍でフランスを立て直す為の力になりたかった。
ですが……目指すものの果てにあるであろう、私が見たい景色の中に、彼女の姿が無いのは……やはり耐えられそうにない」

想い人の為に、全てを捨てる覚悟と気迫が、その文面からは滲み出していた。

「この地位を貴方にお返しする時が来たようです。
貴方がフランス全軍の先頭に立ち、真の勝利を王国に齎す日を──人々が歓喜の中、未来と夢を語れる日が来る事を祈っております」

◆◆◆

文面が間違いなく本人が書いた物であれば、あれから男爵は私兵を率いてフランス側の前線基地となっているルーヴィエへ向かい、ラ・イール達と合流し、ルーアンのブーヴルイユ城に拘禁されているであろうジャンヌの救出に向かったはずだった。
だが、調査では彼が居城から動いた記録はなく、今も所領で失意にくれていると言う。

ばかな。まるで妖精にでも化かされいるような気分だ。
トレモイユが甥に気を利かせて情報を操作している?いや、あの狐がそんな肉親の情に満ちているものか。そもそもジルを所領に退去させた張本人のうちの一人ではないか。

自分のいない間の宮廷に一体何があった?
あっけなく火刑に処された聖女といい──この問題の裏にはもっときな臭い……何か、言葉にするのも嫌な気配がする。

陰謀の予感に、側近を引き連れ宮廷に向けて発つ準備を進めるリッシュモンの眉が知らずひそめられる。長い廊下を抜け、階段を下り、入り口の広間へ。
そこに、配下の兵士の一人が進み出た。

「どうした?馬の準備は出来たか?」

館の扉を開け放した状態で、日の光を背にしている兵士の表情はよく見ない。
直立不動を保っていた男の身体が、ふいにぐらり、と揺れた。
やがてぶるぶると、その身体が小刻みに震え──

「閣下……!」

横合いから割り込んできた側近の存在がなければ、自分も巻きこまれていたであろう光景を、リッシュモンは信じられない思いで見つめていた。

突如、兵士の身体が内側から爆ぜ割れた。
血煙と共に、男が内に収めていた人を構成する部品が辺りにまき散らされる。
びしゃり、と。肉片の一部が伯爵の白皙の頬に当たって落ちた。

「ひっ……!」
「うわあああああああッ!」

男の死に様を目にした側近達は、たちまち恐慌状態に陥った。
兵士の身体から出て来たのは内臓だけではなかった。
誉れ高きリッシュモン伯の配下であった哀れな男を苗床に、飛沫をあげて生まれ出たのは、明らかにこの世のものではないであろう〈何か〉であった。

床をのたうち、這い回る、奇怪な影で出来た蛇の群れのようなものが、二つに折れた男の身体の内から次々と湧き出て来る。
更に目をやれば、辺りに出来た血溜まりからも、何やら不吉な影が幾つも立ちあがっているではないか。

「あ、が……たすけ、助けて……たす……」

湧き出た〈蛇〉に巻きつかれた男が、血だまりの中に引きずり込まれていく。
めきめき、ばきりと、骨が砕かれるいやな音がした後、男は断末魔と共に〈蛇〉の咢によってその頭を粉砕された。灰色の脳漿がぼたぼたと音を立てて床へと零れ落ちた。
あたりの血臭がより一層濃くなる。目の前で起きている異様な事態に、さしもの名将の顔色も蒼白になる。

「何だこれは……!」
「閣下、お逃げください……!閣下!」

側近達の悲鳴で我に返ったリッシュモンが腰に帯びていた剣を抜く。
寸でのところで首に巻きつこうとしていた〈蛇〉を叩き斬り、そのまま身を翻そうとしたが。

──逃げる?一体どこへ。
──奥には妻もいるんだぞ。

「くそっ……!」
「閣下!」

だいたい出入り口を塞がれているのだ。
どういうからくりかは分からないが、この化物を何とかしなければ、どのみち自分達は終わりだ。
眦を決した伯爵が、改めて剣を構え、地獄の使者へと向き直る。

「……おやおや勇ましい。
さすがはかの騎士王の再来とまで言われるリッシュモン伯。この異形の怪物達を前に頑張りますか」

〈蛇〉の動きが止まる。
ぱちぱちと。場違いな拍手の音と共に現れたのは、まだ少年と言っていいほど若い司祭だ。
にこにこと微笑みながら、部下達の返り血を浴びた伯爵と対峙する。

「それになかなかの美男子じゃなりませんか。
……惜しいなぁ。もう少し若ければ、〈彼〉と番いで飼ってあげたのに。
その凛々しい顔がぐっちゃぐちゃに蕩けるところ、見たかったなぁ……」

本気で残念がる若者に、

「いきなり現れて開口一番気持ちが悪い事を言ってくれる。
さてはお前……私の敵だな?」

リッシュモンが額に冷や汗を浮かべつつも不敵に笑う。
生き残った他数名の側近は、伯爵の背後で言葉もなく立ち竦んでいる。

「ええ、ご名答。
リッシュモン伯、私は貴方の敵です。
貴方がフランスにいると色々と困る方が多いようなので、どうか私の為にも死んで下さい」
「ふん、都合のいいことを……
ん?ああ……もしやお前か?デュノワの部隊を壊滅させたとか言う、イングランドが雇った用心棒は」

司祭──プレラーティの笑みが深くなった。

「良く御存知で。
別に用心棒ってわけじゃないんですけどね?
何かあった時の保険に、あの島国に恩を売っておくのも悪くないかなと思いまして。
こう見えても大変なんですよ、私も。
貴方と同じで敵が多くて」
「そうか。お互い苦労するな。
では、苦労人のよしみで一つ訪ねたい事がある」

この期に及んでも伯爵の毅然とした表情は崩れない。

「デュノワと同じように、ノルマンディへ聖女の救出に向かった部隊がいるのだが、知らないか?
私と同じような色男が率いているはずなんだが」
「さあ?どうだか……
ただ私は、ルーアンで運命の〈彼〉を手に入れた。私と〈彼〉を引き裂こうとするものは徹底的に排除するし、叩きのめす。それだけです」

プレラーティの右手がゆっくりと上がる。
その指先に光が灯った。どこか禍々しい、血のように紅い灯火。

それが恐ろしく危険なものである事を──そしてこの光によって今から己が身に降り注ぐであろう災禍を防ぐ術が自分にない事を、魔術を理解せずともリッシュモンは本能的に悟った。

「おしゃべりが長くなりましたね。
──では、永遠にさようなら。麗しの伯爵閣下。
願わくば、20年早くお会いしたかったです」

死神の指先に灯る光が輝きを増す。
伯爵が静かに目蓋を閉じかけた──まさにその時。

雷のような轟音が広間に落ちた。

「……え?」

押し寄せてくるはずの死がいつまでたってもやってこない。
どこか間の抜けたプレラーティの声に、リッシュモンは目を開けた。

「なんだよ……なんなんだよ、これ……!」

目を見開いて呟くプレラーティの掌が、ずたずたに引き裂かれている。

「…………ッ!」

軋みをあげて、天井の一部が崩れ落ちた。
埃と建築材が降り注ぐ中、プレラーティの意を受け、怪物達が再び鎌首をもたげ動き出そうとしたが──

立て続けに轟音が辺りに爆ぜ、宙に閃光が輝いた。
音が響く度、次々と伯爵の周囲にわだかまっていた闇の塊──醜悪な怪物達が雷花に穿たれ、あるいは削り取られ、現世に留めるその姿と命を摩耗し、倒れていく。

「これは……」

伯爵の傍らを、ふいに風が吹き抜ける。
それはどこか、懐かしい気配がした──そして。

ひそやかに伯爵の背後へと忍び寄っていた影は、その身に振り下ろされた見えない鉄槌によって、微塵に砕かれ、潰されていた。
存在の名残の肉塊が、血だまりの中、未だ不気味に蠢いている。
しかし細切れになったそれらはもはや再生するほどの力はないらしく、じわじわと形を失いつつあった。

「死人に口なしか──魔術師はその奇跡の技と己が存在を常に秘匿していると聞いていたが、貴様ときたら自己顕示欲の塊だな、プレラーティ」

皮肉を込めた涼やかな声が、プレラーティの鼓膜へと突き刺さる。
その戦場でもよく通る声は、伯爵にとっても聞き覚えがあるものだった。

「貴様が隠す気がないのなら、私も後始末は管理局の者に任せることとしよう。
この姿では使える武装も制限があるしな」

リッシュモンのすぐ傍らの空間が水面のように揺らめく。何もなかった場所へと舞い散る光と共に現れいずる長身。

「光学遮蔽……理論はあっても、まだ完成していなかったはず……」

プレラーティが憎々しげに吐き捨てる。

「全て〈彼女〉のおかげだ。
悪戯が過ぎたな小僧。
さすがの枢機卿も堪忍袋の緒が切れたと見える。早々に出頭して処分を仰げ。嫌ならここで私の裁きを受けるがいい」

長い──かつては深く艶やかな黝い輝きを誇っていた腰まで届く白髪が、しなやかな動きにつられて靡いた。

怜悧な印象の美貌が振り向く。
髪の色こそ変わっていたが、見間違えるはずもない。
たった今自らの命を救い、またコンピエーニュの悲劇が起こるまでは、生涯の友となる予感を抱いた男──

「ジル……」

化物達の残骸の中、血溜まりを踏み締め、見慣れぬ武器を手に降り立った青年を前に、伯爵は呆然とその名を口にしていた。

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