白百合を抱くハイペリオン(1)

その運命の日。
逃れ得ぬ最期の時、終幕の舞台へと歩を進める少女の目には、迷いも嘆きもなかった。

フランス──未だイングランドの支配下にあるノルマンディの主都・ルーアン。
晴天の下、多くの聴衆がひしめき合うヴィエ・マルシェ広場に、彼女は立っていた。

「……以上の理由から、汝、俗称〈乙女〉ことジャンヌは、様々な虚偽と過誤の罪に堕ちていると判断する」

神学博士による最後の説教が終わり、続いて下された宣告は、今やあらゆる後ろ盾を失った虜囚の徒にとって、ひたすらに冷酷で欺瞞に満ちたものだった。

──これが、私の旅の終わり。
必死に進んで辿りついた先にあった解放の形。

そこに神の正義など、人の良心などありはしない。
全ては権力者達の悪意に満ちた脚本通り。
そして、それらすら超越した世界の理が望むままに──〈乙女〉は生き、そして死ぬ。

「我々は汝がかつて受けた破門判決が正当なものであるとみなし、これより汝の腐敗した肢体が他の善良なるキリストの子等に災いをもたらさぬよう、教会の庇護から切り離し、その身を俗権に委ねる事とする。
俗権が汝に対する処断を緩める事を祈りつつ、教会は汝の救済を放棄する」

祈りなど無意味であり方便に過ぎない。今更判決が覆される事などない。少女を待ち受けるのは「死」だけだ。
それ以外に、彼女の心身が自由となる術はない──ただ。

「──もし汝の中に、悔恨の印が現れるならば、願わくば悔悛の秘蹟が汝に許されんことを」

悔恨──天にまします我らが父の使いとしてではなく、人として残した気持ちがあるとするならば。
──その想いが許されるのであれば。

「……………………」

静かに瞳を閉じ、頭を垂れる少女の脳裏に去来するのは、華々しくも儚い、その奇跡と栄光の日々──そしてその時の中にあって、常に傍らで彼女を見守っていた騎士の姿だった。

◆◆◆

「わたくし、この度、王太子様から軍を預からせて頂く事になりました、ジャンヌと申します。
フランスを救う為、これよりオルレアンに向かいます」

2年前のあの日、シノンで彼の手をとってから全ては始まった。

「──この時代の殿方ときたら、皆さん子牛並の脳味噌しかお持ちでないのかと不安でしたが、そばにいる貴方がお話の分かる方で、本当に良かった」
「お褒め頂き光栄です。
ですが、貴族と言えど、全てのものが等しく教育を与えられる世の中ではないのです。ましてや、貴女のようにとりわけ主の恩寵に恵まれる者がいるわけもない。
どうか、無知で無学な我々をお許し下さい」

与えられた智識に驕り高ぶった無礼な物言いも、彼はいつも微笑みながら赦してくれたものだった。でも。

「──乙女よ」

血の匂いに満ちた戦場で。
感情を押し殺した、低く、かすれた声が、鉄槌のように少女の心を打ち据える。

「あまりにも突出し過ぎです。ここは一度退却を」

戒めるべき時は、戒め、力強く自分を導いてくれた。
特にそれは、少女が自らの身を顧みかった時、味方に無駄な損害を出しかねない無茶をした時、顕著だった。
しかし、いくら見据える瞳は冷徹で、口調は厳しくても──その裏にあるのは、戦場の摂理を知らぬ非力な自分に対する思いやりで。
実際、彼は誰よりも強く、誰よりも清く、優しい人だった。

「貴女は実際、恐ろしくないのですか……?
否、忌まわしいとは感じないのですか?
血に飢え、魂の渇きを癒す為に敵を屠り、その返り血を浴びる事で獣のように瞳を輝かせる、騎士とは名ばかりの亡者を」

そのくせ、誰よりも世界に対して臆病で、救いを求めていた、哀しい人──

「そんなはずはありません……私は貴方に感謝する事こそあれ、忌まわしいなどと思う理由など、あるはずがないでしょう?」

ああ、叶うのなら私が、貴方のその寂しさを癒すことが出来たならと、気が付けば願ってしまっていた。

「乙女……いいえ、ジャンヌ」

初めてその声で名前を呼ばれた時、私がどんな気持ちだったか、貴方には分かるでしょうか。

「貴女に会えて、本当に良かった」
「……私も同じ気持ちです……」

正直、戦場に出るのは恐ろしいし、苦しかった。
それでも、貴方と一緒に居られる時間は、確かに幸せだった。

「──愛しています」

そして貴方は小娘の身勝手な願いに全てを賭して応えてくれた。

「──我らが陛下とフランスへと捧げたこの命でしたが、今より私は貴方の為に生きる剣となりましょう」

どれだけの対価を払って、私の手をとってくれたのか。
その覚悟に見合うだけの何かを、返す事が出来たら良かったのに。

「…………」

声には出さず、何度も救いをくれた大切な騎士の名を唱える。

宝物のようなその名を抱いて、私は逝く。
例えこの終わりが変わらないものであったとしても、せめて最後の時を、もう少しだけ一緒に過ごしたかった──私の愛しい人。
だから、神様。せめて苦しむ彼に何かを残すことが出来るなら、どうか──

◆◆◆

1431年5月30日──『オルレアンの聖女』ジャンヌ・ダルク処刑。

──燃える。
──燃える。
──魔女と罵られ聖女と称えられた稀有な少女が、時代に翻弄された憐れな人間が、いま、その役目を終えて歴史の舞台から降りようとしている。

多くの人の歓喜と憎悪、うずまく感情を炎に巻き込みながら、瑞々しかった肢体は灰となりて崩れ落ちていく。
この後、その魂がいかなる奇跡を起こそうとも、地上での依り代となるべき身体を失ってしまっては、復活はありえない。
死後の救済すらも否定する、異端者への最も苛烈な処刑法──それが炎によって全てを焼失させる火刑であった。

「これで……本当に良かったのですな?プレラーティ殿」

咎人の処遇を委ねられたルーアン市の代官により、無情にも遅滞なく刑が進行していく様子を見守る聖職者の一団の中。一際異彩を放つ若い司祭がいる。

年の頃はせいぜい二〇に届くかどうか。たった今炎に包まれた乙女とそう変わらないように見える。
簡素ではあるが、動きやすいよう身体の形に沿って仕立てられている独特の僧衣に身を包み、年嵩の司教達と肩を並べながらも物怖じする様子は全く見られない。
まだ少年と言っても差し支えないであろう、愛嬌のある美貌は、処刑の場に似つかわしくないほど朗らかな笑みを浮かべていた。

「重畳、重畳。
予定通り、刑が執行されて何よりです」

呼ばれてプレラーティと呼ばれた若者が振り返る。
肩口で切りそろえられた黒髪をさらりと揺らし、明るく澄んだ翠瞳を細めて笑う。端正な顔に刻まれた微笑は完璧で、実に魅力的であったが……その内にどこか見る者を不安にさせる影を含んでいた。

「貴方の素晴らしい働きの数々は、私からも直接、教皇聖下にお伝えしたいと思っておりますよ。
ピエール・コーション司教猊下」

不吉な笑みを深くしながら、上機嫌でその異様に若い司祭は続ける。

「貴方のおかげで、教会の権威に盾突く愚かな魔女は死にました。
そして、我々は〈彼〉を手に入れる事が出来た」

うっそりと呟く若者の言葉に、この『茶番劇』の片棒を担ぐ事になったルーアン司教、ピエール・コーションは知らず身震いをした。
ローマから派遣されてきたというこのトスカーナ人の司祭は、様々な面で彼の理解を超えた存在だった。
教皇庁に属する異端審問官の中でもかなり特殊な事例を取り扱う〈専門家〉という事であったが……

「その……〈彼〉の処遇に関しては……」
「ああ、ご心配なく。
ロレーヌの田舎から出て来た小娘とは違って、短い間だったとはいえ、一国の要職にあった人物ですからね……貴方の手には余るでしょう。
私と、私の同僚が手を回していますから、貴方が気に病む必要はないですよ。
お優しい司教猊下、貴方の救いは〈彼〉には必要ない」

きっぱりと。これ以上、その件には関わるな、と──さりげなく、それでいてこれ以上ないほど強く、若い司祭はコーションに釘を刺す。
朱い唇が優美な弧を描いた。

「そう……〈彼〉は誰にも渡さない。〈彼〉は我々の……いいや、私のものです」

哀れな乙女の身体は、身に着けていた衣服が燃え尽きる頃、一時性別の確認の為炎から遠ざけられ、衆目の元に全てを明るみにされた。
指示を受けた死刑執行人の手で生々しい検分が行われた後、更に薪を継ぎ足され、実に四時間もの時間をかけて燃やし尽くされたのである。

少女の存在そのものを否定せんとする執念すら感じさせる処置の数々は、桟敷で見守っていた聖職者達の何人かすら気分を悪くし、またある者は狼狽え、涙する程であった。

 

◆◆◆

 

「──まったく、酷い事をしやがる」

見物人も去り、くすぶっていた火もあらかた消えかけた悪趣味な宴の跡に、僧衣を纏った男達の姿があった。
崩れ落ち、炭となった薪が積み重なる中、ひとしきり何かを探っていたが、

「なにもありゃしねえ……」
「……一足遅かったようですね」

灰となった少女の遺体は、既に民衆の崇拝の対象となるのを恐れた者達の手によって徹底的に集められ、セーヌ河へと廃棄されていた。

「小娘一人にどれだけびびってんだか」
「仕方がないでしょう。彼女は〈本物〉だったのだから」

生前の奇跡を偲ぶものは最早何も残されていない事に、彼等が落胆しかけたその時。

「神父様方、その、実はこちらに……」

おずおずと、火刑の執行に携わっていた処刑人の一人が進み出る。

「お探しのものかどうかは分かりませんが……正直私達の手には余るもので……何とかして頂ければありがたいのですが」

掲げるように差し出されたものを、男達の一人が受け取る。
手にした皮袋の中に包まれた何か──それはまだ、命あるもののように温かかった。

 

◆◆◆

「〈乙女〉の処刑は滞りなく執行された……だと !? ふざけるな!」

報告に現れた密使の胸倉を荒々しく掴み上げると、部屋の主は困惑と怒りの感情に任せるまま、ただ事実を述べたに過ぎない男を怒鳴りつけた。

「落ち着いて下さいませ、陛下」
「これが落ち着いていられるか……!」

陛下と呼ばれた青年──〈乙女〉ジャンヌが齎した奇跡によって戴冠を果したフランス王、シャルル・ド・ヴァロワは、豊かな金髪を振り乱しながら、その場に控える寵臣を振り返った。
常にあっては凍てついた刃を思わせる、怜悧な光を宿す灰色の瞳は、珍しく焦燥と困惑、そして悔恨がない交ぜになった感情の波に揺れていた。

「既に十分な身代金も支払った。姿形がよく似た身代わりも用意していた……!
散々裏から手は回していたはずだぞ……!なのに何故…… !? 」
「んー?おやおや、何やら修羅場ってますねぇ?」

遠く離れた敵地から齎された想定外の顛末を受け、あまりの事態に国王が吼え猛る居室へと、場違いなほど呑気な声が入り込む。
激情に我を忘れかけながらも、現れた若い司祭の姿をその視界に認めると、いよいよシャルルのまなじりは険しくつりあがった。

「フランソワーズ・プレラーティ……!」
「はーい、陛下ァ。おひさしぶりで~す。
ローマ教皇庁直属異端審問官〈神の御剣〉が一人、フランソワーズ・プレラーティでっす☆」

一国の王に謁見するにはあまりにもくだけすぎた物言いだが、シャルルの怒りは無礼な若者の態度より別のところにあった。
若者が部屋へと足を踏み入れた途端、王は密使の男を放り出すと、プレラーティに詰め寄った。

「貴様……これは、一体どういうことだ!」
「はて……?どういう事、とは?」
「よくもぬけぬけと……
〈乙女〉の……ジャンヌの処遇についてだ!
貴様は俺に約束したはずだな……!〈あの男〉さえ差し出せば、悪いようにはしないと!」
「ええ、私が興味あるのは〈騎士殿〉だけですし?
聖女を語る小娘なんぞ別に用はありませんからねぇ……でも、私が興味なくても、一般の聖職者の皆さんはそうでもないようで……」
「おい……」
「教会の権威をなんだと思ってるんだ、馬鹿にするな!って、収拾がつかなかったんですよねぇ……まあ、気持ちは分からない事もないですし?
一応、あれでも所属している組織は大本で繋がっている仲間ですから。
ほら、仲間に対してはやっぱり色々と協力してあげないといけないじゃありませんか」

あくまでも惚けた口調で、プレラーティは続ける。
今やシャルルの顔色は灼熱した血潮は急速にひき始め、青白くなっていた。

「こ……の……」
「まあまあ。そんなに怒らないで下さいよ陛下。せっかくの色男が台無しですよ。
見ての通り、所詮私は若輩者ですから……年長者の言う事には逆らえなくて。
あとは、そちらの方が報告した通りという感じです」

器用に肩をすくめると、若者は悪びれもなく笑顔で言い切った。

「このような結果になった次第、非常に残念です。おくやみ申し上げますよ、陛下」
「聞いていれば貴様……いい加減に……!」

握りしめた拳へと更に力が加わると同時に、シャルルの声が一段と大きくなった。
王の激情の発露を感じた臣下達が、思わず身を竦めた次の瞬間。

「……ていうかさぁ、アンタ、本気であの女助けようと思ってたわけ?いくらなんでも甘っちょろすぎんじゃないの?」

プレラーティの表情と口調が変わった。

「な……」
「腹違いの妹かもしれないんだっけか?
アンタの母親、あの悪名高きイザボー・ド・バヴィエールだもんねぇ。ありえない話じゃないよねぇ。
実の母親に裏切られて疑心暗鬼になってたところに、生き別れの肉親が現れて優しい言葉をかけてもらったもんだから、お兄ちゃん、舞い上がっちゃったんでしょ?
王様ってば可愛いよねー、反吐が出るくらいに」

馴れ馴れしく肩に手をかけると、プレラーティの顔がシャルルに近付く。
若い司祭の美貌に、相手を甚振るような禍々しい笑みが浮かんだ。

「その可愛い妹が惚れた男を影で売っておいて、どの面さげて再会するつもりだったわけ?
そんな都合よく事が運ぶと思ってたの?どれだけめでたい頭してんのさ、アンタ」
「…………っ!」
「だいたい王様、人を見る目が無さ過ぎるんじゃないの?
虎の威を借りて暴利を貪る無能者ばかり侍らせて、ただでさえ後がない国を更にグダグダにしておきながら、本当に使える人間は煙たがって近づけようとしない」

嘲りの笑みと共に王の剣幕にただ黙して脇に控える配下達を一瞥し、言葉をきると、プレラーティは懐を探る。

「これ、何だか分かる?」
「……髪、の毛か」

ジャンヌ……のものではない。
少女の髪は淡い亜麻色だった。光沢のある青みを帯びた黒髪。あれは──

「そ、アンタが大ッキライな〈彼〉のね」

絵筆の穂先ほどにまとめられたその一房に、プレラーティはそっと口付ける。まるで恋人に愛を囁くかのように。

「綺麗でしょう?光にすかすとキラキラと蒼く輝いて……彼が完全に弱る前に、頂いた二度と手に入らない貴重な品です。
この美しい紺碧の髪も、無理がたたって今では一筋残らず白くなってしまいましたからね……他ならぬ貴方のせいで」
「あ…………」
「ランスの大聖堂で栄光の瞬間に彩りを添えた救国の英雄も、全てを奪われ、敵地の中、今や場末の娼婦もかくやという身の上です。
死という形であれど、自由になった乙女の方がいくらかマシなんじゃありませんか?
彼は自ら命を絶つという選択すら叶わない。
何故ならシャルル・ド・ヴァロワ、貴方がそう望んだから」
「あ……ああ…………」

──また厚顔にも私の愛する者を奪っていくというならば、貴様の全てを奪ってやろう。

悔しかった。
フランス王の血筋に生まれた、ただそれだけで他に何も持っていない自分が。
その拠り所だった血筋すら、ブルゴーニュ派と結託した実の母親に否定された。
君臨するべき都は奪われたまま、戦には勝てず、金もなく、支持者である貴族の城や館を転々とする日々。
人々は己を指して影で笑った。「ブールジュの王」と。

かたや、自分と同じ年頃でありながら、その男は全てを与えられていた。
生まれ落ちた時からブルターニュからアンジューにかけて広大な領地を持ち、長じてからは文武に秀でた騎士の理想を体現するような存在となった青年。所有する城塞は、シャントセからマシュクール、ティフォージュ、プゾージュ、いずれも名門の名に恥じぬ威風堂々としたものばかり。
それらを守る軍団は、潤沢な資金によって整えられた精鋭揃いで、身代金を惜しまぬ主に絶対の信頼を寄せて戦う。

男が自分に対して向ける忠誠心に関しては疑うべくもなかったが、逆にその否の打ち所の無さが、余計に腹立たしく映る事もあった。あの男に傅かれるほど、むしろ自分が惨めに思えた。

最初から約束された富、そして栄光。
何もかもが自分とは違った。どれもこれもが恵まれていた。

だが、あの清い乙女の心だけは──神と、忠誠を誓ったフランス王たる自分にあると思っていた。
出来る限りの事はした。貴族としての位を授け、育った村の税も免除してやった。

──しかし、あの娘の心ですら、既にあの男のもとにあったのだ。

持たざる自分から、少女すら奪いとっていこうとする男を許せなかった。
それだけは譲れなかった。故に──

『手に入らないのであれば、いっそ誰の手も届かない場所へ彼女を送ってしまいましょう。
貴方が味わった失う苦しみを、彼にも思い知らせてやるのです』

──耳元で囁く悪魔の言葉に、

「コンピエーニュに援軍を送る事は認めぬ。
引き続きブルゴーニュ派とは、話し合いによる交渉を進めよ。
これ以上無駄な血を流す必要はない。和平の道こそが、フランス王たる私の意思なのだから」

あの日──躊躇う事無く、自分は挙がってきた報告へと指示を下していた。

自ら切り捨ててしまえば、楽になれる。
これ以上、期待を裏切られ続ける痛みに苦しまずに済む。

『とはいえ、陛下も軍部や国民の手前、恩義ある乙女を見捨てたとあっては格好が悪いでしょうし……まあ後から手を回せば小娘一人の命なんて、どうにでもなりますよ。そこは私にどうかおまかせを。
彼女も話せば貴方の御心を理解してくれるでしょう。
なあに、私は彼さえ手に入れられれば、それでいいのですから』

悪魔が微笑む。
それは獲物を手に入れた喜びからか、私を嘲笑っての事だったのか……多分、両方だったのだろう。

「ああ……そうだ男爵。今の私にはもう、貴様の忠誠も、乙女の奇跡も必要無いのだ」

その時、遠くナントの地で己の無力に歯噛みしているであろう男の様子を想像して、初めて自分は、勝利というものが齎すえもいわれぬ優越感に、心が満たされていくのを感じたのだった──

しかし、だというのに、気が付けばこんな──今となっては総て──

「……それでも健気なものですね。
今でもあの人は恨み言一つ漏らさずに、どんな屈辱にも耐えて、虜囚の身に甘んじている──その気になれば、脱獄ぐらいは簡単に出来るはずなのに」
「な、ぜ……」
「は?わからないんですか?あの人は今でもこの国の──聖女の騎士のつもりなんですよ。
手をあげれば領民に手をかけると呟けば、素直に床に頭を擦り付け。
口答えすれば陛下は玉座を去るだろうと匂わせるだけで、赤面しながらも足を開く。
自分の命を自分のものとして使う発想がそもそもない。
あの人にとっては、自分の誇りよりも〈彼女〉が守り導いた国と、その象徴である貴方の方が大切なんですよ」
「…………」

言葉もなく呆然と佇む王の姿を、路傍の石ほどの興味も持たないといった風情の心底つまらなそうな目でプレラーティは見た後、手にした黒髪を弄びながら、

「ハリボテのアンタとは覚悟が違うんだよ」

軽蔑しきった口調で吐き捨てた。

「ま、聖女様がいなくなった今、こちらの軍には彼女ほど求心力のある指揮官はいらっしゃらないようですし……ましてやその代わりになりそうな人材を自分から捨石にしたんだから、もう詰んでますよね、アルマニャック派も。
とっとと負けを認めて、イングランド王に王冠を渡しちゃったらどうですか?
だいたいアンタ……その王冠、全然似合ってないもの」
「……俺、は……」
「ま、せいぜい最期の日までその重みに耐えられそうにない王冠を後生大事に抱えていて下さいな。
〈彼女〉と〈彼〉が命がけで守ったその血塗られた王冠をね」

言うだけ言うと、すっかり当初の勢いを無くしその場にへたり込んだシャルルと、微動だにしない彼の取り巻き達を振り返る事もなく、プレラーティは捨て台詞と共に去っていった。

「ではでは、私もなかなか忙しい身の上なのでこの辺で。
アデュー、お馬鹿さん達☆
この度はご協力ありがとうございましたーァ!」

無礼な闖入者を追う者は誰もいなかった。

◆◆◆

「……そうか。
残念だが、乙女の処刑は阻止出来なかったか」

シャルルの宮廷やあるいは乙女が散ったルーアンからも距離を置いたパルトネーの地で、一人の男が国の行く末を憂いて嘆息していた。
彼が貴人としての様々な務めを執り行うその部屋に設えられた調度品はどれも上質なものではあったが、男の本来の肩書や血筋を考慮すれば、意外な程簡素なものであった。

しかしながら、その部屋に佇む男の姿こそ、この部屋における最も優れた美術品であり、男の存在を引き立てる為に余計な装飾を極力廃した結果、この部屋の佇まいが出来上がった──そう言われても、成程、この場に通された者は納得出来たかもしれない。

それほど只ならぬ風格を持つ男だった。

彫刻のように均整のとれた長身に、頂くは王家に繋がる血筋をあらわす緩やかに波打つ金髪。目元の表情は穏やかでありながら、軍人特有の力強い光を宿す群青の瞳。凛々しく引き結ばれた口元と美しく通った高い鼻梁──生命力にあふれた精悍さと気品と誇りが滲み出る繊細さとを奇跡のような配分で同居させた白皙の相貌は眩いばかり。美丈夫、という言葉がこれほど似合う男もいないだろう。
その実、10代でアザンクールの戦いを経験した彼の身体には、少なからず負傷の後があり、傷が残るのはその美貌も例外ではなかったのであるが……受けた額の傷も豊かな髪に見え隠れする程度、彼のたてた武勲に説得力を与える事はあれど、輝きを損なうものでは決してない。

男の完璧さに、擦れ違う者は異性であれば頬を赤らめ、同性であれば激しい嫉妬、あるいは強い憧れを抱かずにはいられない──生まれながらに他人の上に立つ者である事を全身で示す存在感。獅子のごとき威風。

男の名は、アルテュール・ド・リッシュモン。当代のフランスで最も優れた将軍と誰もが認める英傑にして、ブルターニュ公国、そしてフランス王家に連なる伯爵である。

「救出に向かったエチエンヌ・ド・ヴィニョル──通称〈憤怒〉(ラ・イール)の部隊は潰走、部隊長以下兵士は全員捕縛された、と」
「はい。後に彼等は身代金を支払いに応じて解放されています」
「ふむ……それで、救出部隊に参加していたもう一人……ジル・ド・レイ男爵の方はどうなったのかな?」
「は……いや、あの方の情報は特に……捕縛の情報もありませんし、そもそも兵を動かしたという事実もありません。
傭兵部隊に対して資金面や物資の援助だけをしていたのでは?」
「…………それはありえない」
「閣下……?」

部下からの報告に、伯爵はその形の良い眉をひそめた。

リッシュモンの後任として大元帥の地位に就き、ランス大聖堂での戴冠式にも参加していた青年貴族──ジル・ド・レイは、リッシュモンを宮廷から追放した王の侍従長、ドゥ・ラ・トレモイユの甥にあたる。

表面上は政敵にあたる関係の二人であったが、軍人としては互いに認める仲だった。そしてジルがトレモイユの策によって元帥位に就いた後も、二人は秘密裏に書簡によるやり取りを重ねていた。
確かに言葉自体を交わした回数はそう多くはなかったかもしれない。だが、少なくとも書面から垣間見える青年の誠実な人柄と、知性と勇敢さを兼ねそろえた軍人としての際だった資質を、リッシュモンは高く評価していた。

「彼は自分の愛した者の救出を人任せにするような無責任な男では断じてない」
「た、確かに……男爵と乙女が恋仲だったという噂は前線の軍人の間では有名な話だったようですが……あの方とて立場のある貴族なのですから。
王命に逆らってまで兵を動かすとは……相手は何と言っても農民の娘に過ぎないのですよ?」
「ただの農民の娘ではない。フランスの危機を救った聖女だ……そして何よりジルにとっては将来を約束した、たった一人の女だった」
「将来を約束した、ですって……?
名門ラヴァル家の嫡男であるあの方が?それはどういう……」
「説明は後回しだ。長くなるからな。
その件の確認も兼ねて、私は今から宮廷に向かう事にしよう」

伯爵の口から飛び出した言葉に、部下が目を見開く。

「え……?陛下の御赦しが出たのですか !? 」
「陛下の義母上であるヨランド様が御呼びなのだよ。詳細は分からぬが、どうせ何かあったに違いなかろう。ジルの件も含めてな」

伯爵の目は、既に戦場に向かうそれだった。

「私も今度ばかりは、何があっても引っ込むわけにはいくまいな……乙女の為にも、友の為にも」

◆◆◆

「……とはいえ、今のフランス……もとい、アルマニャック派に手駒が何も残っていないかといえば、そうでもないんだよなぁ」

手にした想い人の髪の房で己の口元を擽りつつ、プレラーティは一人ごちた。
ローマに帰還する途中の田舎道を、ぶらぶらと歩く姿は、とても少年が教会の中でも十指に入る程危険な力を持つ異端審問官だとは思わせない。
ローマ教皇庁直属異端審問官〈神の御剣〉──それは地方を流離う名ばかりの錬金術師や魔術師とは違う、真の魔人達が集う闇の巣窟。教会が抱える最大の矛盾にして最強の剣。
そして、このフランソワーズ・プレラーティこそ、その魔人達の中の頂点に立つ存在だった。
彼等を束ねる教皇その人や枢機卿達も持て余す、禁忌の力の塊──

「確かボージャンシーをあの魔女と一緒に奪還した将軍……王様には嫌われてるみたいだけど、宮廷に復帰されたらちょっと厄介かもね……」

髪の房を弄びながら、しばし思索に耽った後、僧衣を纏った悪魔の唇が吊りあがった。

「よーし!ついでだから、もう少しイングランドに恩を売っておくことにしようかな♪」

とびきりの悪戯を思いついた悪餓鬼のような明るい口調で言うと、プレラーティは思い切り伸びをした。
その若者らしい溌剌とした動き見る限りは、口調と相まってむしろ微笑ましいぐらいであったが、

「──フランス最高の将軍だかなんだか知らないけど、所詮、魔力もないただの人間なんだから。
面倒な事にならないうちに、軽く殺っておきますか!」

口にした内容はこの戦争の──ヨーロッパ全土に渡る力関係を覆すほど、不吉で物騒なものであった。

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