還り着く場所(21)

──1458年12月26日。
これまで歩んできた戦いの日々に思いを馳せながら、一人の英傑が静かに神の御許へ導かれようとしていた。

その名はアルテュール・ド・リッシュモン。
〈乙女〉ジャンヌの導きによりフランス王となったシャルル・ド・ヴァロワの下、王国の元帥としてその辣腕を遺憾なく発揮し、長きに渡るイングランドとの戦いをフランスの勝利で終結させた最大の功労者である。

フランス王家に連なる大貴族に相応しく、豪奢でありながらも華美ではなく上品に整えられた室内。
洗練された空間の中央に据えられた寝台に横たわる人物の視線は、病に伏してなお、静かな威厳を湛え、虚空の先に在るこの国の行く末を見据えているかのようだった。

「……これが最後だ。
友と二人きりにしてはくれまいか」

遺してゆく者達への託を済ませた後、部屋の主は部屋に集った家臣達へ退出を命じる。
執事が一礼して部屋の扉を閉めると、臨終の場には、寝台の傍らで影法師のように黙して佇んでいたフードの人物のみが残された。

ある時期を境に、リッシュモン伯──昨年、巡り巡って公爵位を相続した為、ブルターニュ公アルテュール3世となっていたが──その武人の中の武人である元帥の行く先々、あらゆる戦場、政治の場で彼の傍らに立つようになっていた不可解な人物。元帥の『彼』に対する信頼は絶大であり、リッシュモンがシャルルに対して提言し、実行された政策や軍事作戦の多くも、この人物が大きく関わっているのだという。

しかしその姿は『フランス最高の将軍』として知られる武人の横に侍るには如何にも胡散臭い。
伝え聞く古の賢者や魔術師達を思わせる黒外套。常に目深に被ったフードにより隠された素顔。元帥と語らう口調からまだ若い男である事だけは察せられたが、それ以上の事は誰も、何一つとして分からない。正体を不審に思った古くからの寵臣が調査したものの、その素性は全く伺い知れず、逆に『影法師』の素顔を必要以上に嗅ぎまわったその男は元帥の不興を買い、側近の地位を追われてしまった。

結果、この事件を境に、『元帥の愛人』とも噂される『影法師』の正体について詮索しない事は、リッシュモン伯に仕える者達の間では暗黙の了解となった。
やがて、この人物が決して己が功を主張する事はなく、また他者を害する陰謀も持たず、ただ元帥の為す偉業を支え、公の利益のためにのみ動く者である事が浸透し始めると、次第に元帥の麾下で彼の存在に疑問を持つ者は少なくなっていった。
それでも腑に落ちずにいる者、食い下がろうとする者も、今や奸臣ドゥ・ラ・トレモイユが去った宮廷内において絶大な力を持つ元帥の怒りに触れるのを恐れ、黙っているしかなかった。

そんなフランス王国が誇る大英雄の寵愛を一身に集める人物は、廊下に消えた家臣団の気配が部屋から完全に離れたのを確認すると、おもむろに口を開いた。

「閣下。少し窓を開けましょう。少々この部屋の空気は重苦しい。
幸い、今日は天気も穏やかです」

言って、『影法師』は彫像のごとく微動だにしなかった公爵の枕元を離れ、窓の近くに歩み寄ると、カーテンを開く。
冬の午後を照らす太陽の光が、陰気に支配されかけていた部屋へと優しく差し込む。
外套に包まれた長身の背中へ穏やかな視線を送るブルターニュ公の口元が、淡い微笑みを浮かべた。

「友よ。
残り少ない二人きりの時間ではないか。
他人行儀な呼び名はやめてくれ」

つい先程まで行われていた深刻なやり取りとは打って変わった、どこか甘さすら感じさせる柔らかい口調だった。

「最後にこの瞳に焼き付ける君の姿がそれではあんまりだ。
どうか近くで今一度、私にその顔を見せてくれ」

乞われてフード姿の忠臣が、公爵の枕元で膝を折る。
白い指先が目元まで覆ったフードへとかかり、小さな衣擦れの音と共に、その素顔が明らかとなる。

「……ああ。
本当に君はずっと変わらないな……
初めて戦場を共に戦った頃……あのボージャンシーでの戦いの頃と、何一つ変わらない」

目を細めて公爵が見つめる先。
病に身を窶した主君を静かに見守る白皙の美貌があった。

かつて、王権が失墜したフランスがその誇りを取り戻す為、王太子シャルルのランスでの戴冠を果たそうと戦っていた時。〈救国の乙女〉ジャンヌと轡を並べた兵(つわもの)達がこの場に居たらおそらく驚愕したであろう。
見る者に強い印象を残した神秘的な黝い髪は、全て新雪のような白へと変じていたが、部屋の中で淡く輝く王冠のごときその髪に飾られた秀麗な横顔は、見間違えようもない。
あのノートルダム大聖堂で、乙女ジャンヌと共に、フランス王シャルル7世の誕生という最も喜ばしい瞬間に立ち会った、今は亡きもう一人の英雄──ジル・ド・レイ。
とうの昔に宮廷から去った居るはずのない人物が、決してあり得ない姿で、そして家族よりも近しい友として、公爵の前に控えていた。

「君にはもはや言葉では言い尽くせないほど世話になった。
フランスがカスティヨンで凱歌を謳う事が出来たのも、こうして私がベッドの上で死ぬ事が許されるのも、全て君のおかげだ。
陛下に代わって万の感謝を」
「……いいえ。
シャルル陛下がキリスト教最高の庇護者として認められるに至ったのは、アルテュール、貴方の才と国への愛の賜物だ。
貴方の協力が無ければ、私が国政に関わる事は絶対に不可能だった。
貴方が私を信じてくれたからこそ、今のフランスがある。私一人では何も出来なかった。
ジャンヌもきっと……神の御許で喜んでいるでしょう」

どこまでも謙虚な青年──とはいえ、実年齢はとうに50をこえているはず──の言葉に、公爵は笑った。

「まったく……欲というものが一切無いのだな、君は。
私は昔の約束を守っただけだ。
言ったではないか。共に新しいフランスの時代を築こうと」
「貴方こそ。政治のイロハも知らない若造との約束を覚えているなんて。
人が良いにも程がある」
「人が良い?まさかまさか。
私はトレモイユ卿と肩を並べる程度には腹黒い人間だよ」

友との語らいを楽しんでいた公爵はここで笑いを収めると、どこか痛ましげな目で青年を見ながら、言葉を続けた。

「なあ、友よ。
私は口惜しくてたまらんよ。
モントレーの攻略、パリの解放、軍制の改革──私が為したと称えられる功績のいずれも、本来君が誉れを受けてしかるべきものだ。それを──」

言い募る公爵の前で、知られざる忠義の徒は静かに首を振った。

「確かにそれらの案件について、私はいくらかの助言をしましたが──それでも、その意見を実際に採用し、人を動かし、形にしたのは貴方の力によるものだ。アルテュール」
「そうかもしれない。だが、やはりこれは公平な評価とは言えんよ。
あの哀れな乙女の名誉は先の裁判で復権されたが、君の汚名は未だ晴れないままだ」

そう。ここにいる彼の前任として元帥を務めたこともある青年は、10年以上前に幼児虐殺、男色、悪魔術の行使といった騎士として不名誉極まりない罪で告発され、教会から異端として断罪され、処刑されたはずの身の上だった。
だが、王国の政治事情に詳しく、青年の所領が属していたブルターニュ公国を引き継いだリッシュモンは知っている。
彼の名を貶めた宗教裁判が、先代のブルターニュ公とフランス王、そしてイングランド軍と教皇庁という権力者達、それぞれの思惑の複雑な重なり合いによって計画された、茶番劇であったという事を。

彼等は欲していた。青年が所有する莫大な富を。そして奇跡をその身に宿す青年自身を。
時代を動かすだけの力を持つ欲望が、ブルターニュの地へと収束し、青年の存在を生きながらにこの世界から抹殺した。

「出来るものなら、私は声を大にして訴えたいよ。本当の大元帥は君だ、とな」
「今更死んだはずの人間が出て来ても、いらぬ混乱を招くだけです」
「わかっているさ……それを良い事に、私は君を利用してきたんだ。
君には私が動けない場面で、汚い事も沢山させた」
「私は私、貴方は貴方の為すべき役目を果しただけの事。気に病む事はありません」
「君も武人としての矜持があるだろう。悔しくはないのか」
「振りかざしたところで役に立たない誇りは、ジャンヌが死んだと聞かされた時、ルーアンの牢獄に捨ててきました。
そういう意味では、確かにジル・ド・レイと言う人間は一度死んだのですよ」

きっぱりと言い捨てると、在りし日は元帥として王国に奉仕していた青年は、端麗な顔に妖艶な笑みを浮かべた。

「貴方こそ、この毒婦のような男に人生を利用されたとは思わないのですか?」
「たとえ利用されていたとしても、充実した人生だった。大いに満足しているよ。
むしろ、私は君を満足させる事が出来ただろうか?」
「……ええ、十二分に。
むしろ期待以上の仕事を貴方はしてくれた」
「そうか。それは良かった」

友の受け答えに、病床の英雄は満足そうに微笑む。
死を間近にしている事が信じられないほど、公爵の口調は軽やかだった。

「アルテュール……」
「君の存在を踏みつけにしながら、私ばかりが功臣として歴史に名を残し、君は汚名を着せられたまま、名乗る事も出来ず、この先も生かされていく。
正直、この体たらくでは、あの世で私は乙女に顔向け出来んよ」

公爵の群青色をした瞳が、切とした光を湛えて青年──ジルを見つめている。

「我が最愛なる友よ──私の生涯最後の頼みだ。
老いさらばえた身で申し訳ないが、神の迎えが来る前に、私の命を喰らってくれ」
「………………」
「もうこの私には、それぐらいでしか君の長きに渡るフランスへの働きに対して報いてやる事が出来ない」

公爵が目を閉じる。
最初からそのつもりだったのだろう。

「馬鹿な事を言わないで下さい、アルテュール。
私に取り込まれるという事がどういう意味か、本当に分かって言っているのですか」
「ああ、分かって言っているとも。
主である君が滅びぬ限り、永劫の時間を君の力の一部として、我が魂は燃え尽きるまで行使されるようになるのだろう?
死してなお、君を通じて世の為に奉仕出来る。素晴らしい事ではないか」

自らの傍に青年を置く事を決めた時から、公爵は彼の本性を──〈魂喰らい〉の吸血鬼である事を理解していた。
理解した上で、友として青年に信頼を寄せたのだ。

「貴方は真っ当なキリスト教徒だ。天で神に祝福されるべき偉人です。
私に呪われて、この世に留まり続けるなど……」
「同じく真っ当なキリスト教徒であった乙女は、人の手で灰にされて、復活の時を迎えられなくなってしまったではないか」
「彼女と貴方は違う」
「同じ人間だ。何も違わないだろう」
「………………」
「お願いだ、ジル。もう時間が無い──」

苦悩に目を伏せる青年の様子を見かねて、公爵は溜息を一つ吐いた後、静かに言った。

「では、人として最後に言わせてくれ。
謙虚なのは君の美徳だが、あまりに過ぎるとこちらが悲しくなってくるぞ。
そうして他の誰かを泣かせた事はなかったかね?」
「アルテュール……」
「大抵の場合、人の好意は素直に受け取る方が喜ばれる。
君に足りない処世術の一つだよ」
「わかりました……肝に銘じておきます」
「是非そうしてくれたまえ。年長者の意見は聞くものだ」

得意げな主君の顔を見て、ジルが困ったように微笑む。
公爵がこうと決めたら折れない男である事は、長年の付き合いでよく分かっていた。

「──ありがとう、アルテュール。
では私自身の魂が地獄の果てに行き着くまで、どうぞ貴方の力を貸して下さい」

床に膝をついて控えていた騎士が、ゆっくりと立ち上がり、目を閉じた公爵の額にその白い手をそっと添えた。
そこから先、もはや二人の間には言葉も、特別な儀式も必要なかった。
部屋には変わらず、午後の柔らかい光が射し込んでいる。
青年が触れた公爵の顔はあくまでも穏やかで、長閑に流れる時間に誘われて、ただつかの間の午睡にまどろんでいるかのように見えた。

■■■

かくして。
1954年7月のカスティヨンでのフランスの大勝利から4年後。
百年戦争を終結させ、数々の英断・改革により、国王による絶対王政の礎を築いた名将・アルテュール・ド・リッシュモンは多くの人間に惜しまれながら、静かにその生涯に幕を下ろした。

それから更に3年後。功臣達に支えられ、フランスからイングランド軍を駆逐し王国の栄光を取り戻した〈勝利王〉シャルル7世が、また時を置いて68年にはシャルルの侍従長となっていたデュノワ伯ジャンがこの世を去り、乙女ジャンヌと共に奇跡の立役者となっていた人物達は、次々と歴史という歌劇の舞台から去っていった。
艱難辛苦を経て、大国となったフランスは、今次の世代へと受け継がれていこうとしている──

■■■

「……これで、この国での私の役目も終わったか」

偉大なる公爵の葬儀が滞りなく行われるのを見届けた後、ブルターニュを抜けて南へと向かう街道で馬を進めながら、白髪の騎士──ジルが呟く。
これから街道をひたすら南へ南へと下り、ローマへと帰還するのだ。
現在の彼の身分は、フランス王国の騎士ではなく、教皇庁に属する教会の騎士であった。

それもただの騎士ではない。神の威を借りてその敵を討つ奇跡の騎士──聖騎士と呼ばれるまでになっていた。
粉々に折り砕かれ、二度と剣を握る事は適わぬと思っていた指に今しっかりと感じる重みは、伝説にその名を残す、名剣のそれだ。

一度は異端とされた身が、転じてキリスト教徒の希望を一身に背負う事になろうとは。なんたる皮肉。なんたる矛盾。
思わず苦笑を漏らさずにはいられないが、そのおかげでフランスでの身分を失った後も王国の復興に携わり続けることが出来た。

良くも悪くも実力主義で、冷め切った思考形態を持つ魔術師達の集団である〈神の御剣〉は、使える人材を決して腐らせて放置させておくことはなかったのだ。
元より彼らは、ただその天才的な魔術の技能によってのみ身分を保障されてきたフランソワーズ・プレラーティを快く思っていなかった。
そして彼らを指揮・管理する聖職者達にとっては、同じ魔術師以上にプレラーティは頭の痛い存在だったに違いない。
増長甚だしい魔術師を牽制する為、彼等はジルの存在を使う事にしたのだ。
そしてジルもまた、彼らの策にのった。

彼等は自分達が扱いきれず、秘蔵されたままになっていた〈聖遺物〉がジルに対して恭順する事を認めると、それを運用させる為の〈部品〉としてジルを活かす事を考えた。
これにより、プレラーティとジルの立場は完全に逆転する事になったのだ。

それからほどなくして。
魔術師達の人心を掌握したジルは、〈悪辣なる魔導王〉の存在を教皇庁から孤立させ、とうとう愛した少女の敵を討ち果たしたのだった。

更にこの実績により、教皇庁内で一定の発言力を持つに至った騎士は、百年戦争の終結とフランス領内の政治状態の安定の為、己をリッシュモンの下に派遣させる事を教皇に了承させた。
教皇や一部の高位聖職者達も、長期に渡る戦乱でヨーロッパの地がこれ以上荒れる事を善しとしていなかったのだろう。特に反対する意見もなく、彼らはジルをかつての故郷へと送り出した。
まだカレーの地でイングランドの残党が燻っているが、成果としては十分だろう。
これより後は、自分達ではなく、若い新国王達に任せるべきだ。

脳裏に浮かぶ数々の情景。
本当に色々あったが、あっという間の20年だった。

「……そう、20年。
あのパリでの戦いから、陛下が都に戻るまで、本当にこれだけの時間が掛ってしまいました」

パリ市民の熱狂に包まれながら、王都へとシャルルが帰還した日の様子は、昨日の事のように思い出せる。
──あの陛下と市民が和解した素晴らしい瞬間を、少女にもまた、見て欲しかった。

「全てはジャンヌ、貴女の言葉通りだった」

かつてパリ城壁での敗退により、軍の解散を余儀なくされた時、少女は訴えていた。
『今、パリを攻めなければ、この戦争はあと20年は終わらない』と。
アランソン公を救った事もある彼女の予言は、またしてもここにその神秘を証明する事になったのだ。

「……私は、少しでも貴女の思い描いた世界に、フランスを近づける事が出来たでしょうか」

馬上の騎士は、おもむろに懐から何かを取り出す。
……それは傷つき、色褪せたロザリオだった。

ああ、今この万感の思いを分かち合える貴女が傍らにいない事が、ただ悲しい。

(ジル)

そんな青年の声なき慟哭に、寄り添う在りし日の少女の姿がある事を、彼はまだ知らない──

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