還り着く場所(19)

……もう、やめて……

深い、深い闇の中で。少女はひたすら嗚咽し、懇願する。
いずことも知らぬ場所にいる、誰かに向かって。

……もうこれ以上、彼を苦しめないで……彼を壊さないで……お願い……

彼女が愛する青年と引き離された後、彼の身に起こった出来事は、まさしくこの世に地獄を再現したものに他ならなかった。
どんな悪党であろうと、善人であろうと、等しく一度だけ与えられるはずの死を、彼は幾度その身に、その魂に刻まれたのだろう。
この城塞の中に集う人間達には心底、人の心というものが無いのかと思えるほど、あらゆる責め苦でもって、彼らは彼女の騎士を傷つけた。

時に暴力で、時に言葉で。
苦痛によって苛み、快楽によって誘惑し、哀しみで押し潰しながら、その瞳から理知の光が失われるのを今か今かと待っている。
生前、彼女が体験した異端審問も苛烈を極めたが、それでもここまでは酷くなかった。
かつて一国の元帥ともなった貴族に施される拷問が、まさかこれほどのものとは……
少なくとも、彼女にとって『死』は一つの救いであり、この世における使命からの解放を意味するものだった。
しかし、彼にとっての『死』はただの通過点に過ぎず、新たな苦痛の始まりでしかなかったのだから。

誰か……誰か彼を助けて……この魔窟から彼を救い出して下さい……

人としての最低限の尊厳すら容易に奪う、狂気じみた行為の数々に耐えられず、目を閉じ、耳を塞いで逃げ出そうとしても、その間隙を縫って彼の苦鳴が染み着いてくるようで、直接危害を加えられていない彼女の方が先にどうにかなってしまいそうだった。

中でも彼女を苦しめ、彼を捕えた魔術師の悪辣さを感じさせたのは──

「神よ……私が見失い、そして『彼女』が見出した偉大なる神よ。
まだ呪われたこの身に祈りが許されるのであれば、どうか、『彼女』だけは……貴方の乙女だけは、お救い下さい」

──時折、苦鳴に交じって彼の唇から漏れてくる祈りの言葉だった。

この言葉に。
彼女は言葉を失った。事態の残酷さに魂まで引き裂かれそうだった。
彼は知らない。この期に及んでまだ何も知らされていないのだ。

おそらく、あの魔術師は最後の最後まで希望を持たせた挙句、極めつけの場面で彼女が処刑された事を伝える事で、今度こそ微塵の容赦もなく彼の心を砕こうとしているのだろう。
今はまだ変わらず人の心を保っている青年だが、その正気を支えるただ一つの希望が潰えた時、それでも人に、神に絶望せずにいられるだろうか──

◆◆◆

「……………………」

今日もまた何人かの『客人』をもてなした後、つかの間の休息の時に身体を丸めて微睡む青年の傍らで、かつて聖女と謳われた少女は立ち竦む。
今の自分はただの幻。彼の苦痛を和らげる事も、労わる事も出来ない。
無論、彼と何らかの形で心を通わせる事は叶わないかと、幾度も試みてきた。

「ジル……私はここにいます……いつも貴方の傍にいるのです……」

しかしあらゆる方策は失敗に終わり、彼女は途方に暮れていた。
このまま自分は何も出来ないまま、ただ恋い焦がれた青年が無残に冒され、狂っていく様子を見守り続けるだけなんて。

「……おや、君ともあろうものがもう降参か?」
「……!」

何の前触れもなく傍らに顕現した気配に、少女が顔を上げる。
そこには少女──ジャンヌを再び現世へと送り込んだ存在である、いずこからかこの世界に訪れた紅い御稜威の大王の姿があった。

「貴方は……」
「君たちの運命に介入してしまった以上、無下には出来ないからな……性分故に少し気になったものでね。
やはり辛そうだな」

場違いなほど優雅な微笑みを浮かべている偉大なる存在に、少女は思わず胸の内を吐露する。

「こんなにジルが苦しんでいるのに……私は、本当に何も出来ないのですか?」
「残念だが……そういう契約だ」
「……そんな……
私は肉体は失いましたが、この世界に戻ってこれたのですよね?
私を導いていた『神様』や『聖女様』達は、霊体だけでも私達と意思疎通をする事が出来ました。
せめて……せめて言葉を交わす事だけでも叶わないのですか?」

縋るような少女の視線と言葉に、御稜威の大王は瞳を伏せて嘆息する。

「私としてもそうしてやりたいところだが……君達の場合、置かれている環境が悪過ぎる。
そもそも、君は不思議に思わなかったか?
君が常に彼の傍らで見守っているのに、あの魔術師達が何の反応も示さない事に」

指摘されて、少女ははっとする。
言われてみれば、今もあれほど気配に敏感であった青年が、傍らで会話を続ける自分達を余所に、深く眠りに落ちたままでいる。
ちっぽけな自分だけならまだしも、あれだけ強大な気配を纏った存在が降臨しているのに、何も感じないのは確かに違和感がある。
今も自分は並び立つ異邦の天帝に途方も無い霊圧を感じているというのに。

「確かに今、私たちは現世に降りてきている。
だが、厳密にいうと、彼らがいる空間とは薄皮一枚隔てた別の亜空間から彼らを見守っているのに過ぎない。
その気になれば『あちら側』の感覚をこちらに引き込んで再現する事は出来るがね。
同じ場所にいるようでいて、決して同じ場所に立ってはいない。
だからこそ、『あちら側』にいる彼らから我々が察知される事も干渉される事もない。
もし、本当に君が幽霊になって彼の傍に化けて出ていたら、それこそあっという間にあの魔術師達に見つかって、消し飛ばされるか、封印されていただろうな。
なにぶん、彼等はその道の手練れなのだから」

話を聞くと、随分気を使ってくれた結果らしいが……しかし、それ故に、余計に安全な場所から手をこまねいている自分が惨めで悔しかった。

「それでも何か……何か方法はないのですか?」
「そうだな……彼と君との間を直接的に繋ぐ役目を果たすものがあれば……霊的な媒介を果たすものがあれば話は変わってくるんだろうが……
返す返す生前、君と彼との間に魔力経路が通っていなかったのが悔やまれるな。
……これほど惹かれあっていながら、清過ぎるというのもそれはそれで難儀なものだな……」
「そうですか……」

今は安全に彼と接触出来る機会が訪れるのを待つしかない、という事か。
つまり、辛くてもひたすら彼を信じて耐え忍ぶしかないのだ、自分は。

沈痛な面持ちで想い人の寝顔を見つめている少女と、少女の視線の先、その足元に横たわり傷を癒している青年を交互に見た後、天上を歩む王は言った。

「だがな……ここで躓くようなら、正直、この先10年と君は彼と歩めまいよ……
これから君の彼氏が進んでいくのは、並の英雄ならば入口で回れ右して逃げ出すような修羅の道だ。
彼が苦境に追い込まれる度、君は不安にかられて右往左往するのか?」
「でも……私は……私は……」
「なあ、お嬢さん。
もし、君が本当に彼を愛しているのなら──」

想像以上に過酷な現実を前に、心が折れかけている少女の肩へと、優しく紅い王の手が置かれる。

「もう少し、自分の目と君の彼氏を信じてやったらどうだ?」

沈み込んでいた少女の意識が温かな言葉に引き戻される。
そんなやり取りの最中、紅き天帝が視線で指し示す方向から、複数の気配が静けさに包まれる牢へと近付いていた。

◆◆◆

「この度はお忙しい中、遠路はるばるお越し頂き恐悦至極であります。
むさ苦しい場所ですが、どうぞごゆるりとおくつろぎ下さい」
「……どう見てもくつろいだ気分になれそうな場所には思えぬのだがな、私には」

言葉とは裏腹に、全く恐縮した様子のない男に対し、こちらもまたにべもなく切り捨てた当夜の客人は、深く被ったフードの下の端正な顔をしかめ、大仰に溜息をついた。
そして、しかるべき後、鼻腔をつく臭気にますます眉間の皺を深くする。

町外れの城塞の奥深くに設けられた地下牢の換気はお世辞にも良いとは言えず、ただそこにいるだけで、垂れ込める澱んだ空気に冒されそうな悪寒を異邦人に齎した。

「はは、それはごもっとも。
本来であれば、貴方様のような貴人が足を踏み入れるような場所ではありませんからね。ここは」

不機嫌な客人の様子を特に気にした様子も無く、この場の案内役を買って出たプレラーティは、この場にはおよそ不釣合いな程明るい声で応じ、更に暗闇の奥へと歩みを促す。

それは別段場の雰囲気を和ませようとか、そういった意図があってとった行動ではないのは、一行の誰もが承知の上だ。
にこやかな表情の裏に、何やら得体の知れない影──この牢獄よりなお暗い闇の匂いを感じ取ったのか、こちらも身分を気取られ難い装束に身を包んだ客人の連れが、それとなくあってしまった視線を逸らし、小声で吐き捨てる。

「私利私欲の為に聖下の威光を利用する外道が──」
「おや?何かおっしゃいましたか?」

振り返るプレラーティの笑みが深くなったのを見て、もう一人の人物が吐き捨てた連れを窘める。

「落ち着け。こんなところで我々が騒ぎを起こした日には、みな崩れた城ごと生き埋めだ」
「そうそう。それでなくても今は人出が足りなくて大変な時なんですから……みんなで仲良くやっていかないと」
「ちっ……」

そんな一触即発の気配を漂わせる三者から距離を置いて、更に二人の人物が狭い地下牢を進んでいる。

「その吸血鬼の騎士さん?すっごく綺麗なんでしょー?楽しみだなー♪」
「……おい、お前。少しは空気読めよ。不謹慎だぞ」
「いいじゃなーい。
これまで僕が狩ってきたのって、みんな腐りかけの屍喰らいばっかりだったんだよ!少しぐらい……」
「いいから黙れ」
「ぶー」
「それにしても……いくら宣誓を拒んだ身とは言え、これが所領を持つ貴族への扱いとは……」

無邪気にはしゃぐ相方──どう見ても少年──の頭を軽く叩いて黙らせると、年長者らしき青年と思われる人物は、信じられないとばかりに低い天井を見上げる。

実際、もっともな意見だった。
この時代において、戦争とは一つの商業(あきない)である。傭兵や身分の低い騎士ならばいざ知らず、一角の領主が捕縛された場合、後の交渉時に身代金を期待する事が出来る為、大人しくさえしていれば、相応のもてなしを受ける事が出来るのが普通だった。
ましてや、プレラーティの話が事実であれば、今ここに囚われているのは、フランスでも屈指の大領主であり、その武功によって一国の元帥にまで上り詰めた英雄なのだ。当世の常識に当て嵌めれば、考えられない処遇であった。

そう、常識で考えれば。
しかしながら、彼らと共に牢獄を進む相手は、常識というものから最もかけ離れた存在だった。

「そうですね。確かに私が傭兵で、ここが普通の戦場でしたらそのようにしていたでしょう。
ですが……私も皆さんも傭兵でもなければ騎士でもないのです」

あくまでも穏やかに──それでいて、抑えきれない熱のようなものを言葉尻に滲ませたまま、異端の神父は言う。

「そう。我々は選ばれた魔術師の中の魔術師。
同時に教皇聖下から使命を帯びた神父であり、踏み入るのは異形が蠢く修羅場なのです」

振り返るプレラーティの口元に今までとは違う種類の笑みが浮かぶ。嘲笑の一言で済ますには余りにも冷たく、狂気を孕んだ魔性の微笑──

「我々の世界では人の世界の常識は通用しません。
貴方方もよく御存知のはずではありませんか。
そんな貴方達が私に常識を説法するなんて、片腹痛いというものですよ」

きっぱりと言い切りつつ、それからやや相手に譲歩するようにプレラーティは付け加える。

「とは言え、人の世界の常識に照らし合わせても、彼は責められるに充分な罪を犯したのですよ。
審問中の異端者の脱走に加担したばかりか、その場に居合わせた衛兵や聖職者十数名を殺害、と……まぁこれだけでも極刑ものなのですから──」

自らが詰めるゲーム盤の完成度に興奮を隠せないプレラーティの唇が喜悦に歪む。

「──彼を救うものなどどこにもいないのですよ」

さあ、いよいよこの舞台も佳境だ。
目一杯の悲劇で彼の花道を飾ってやろうではないか。
彼が騎士としての役目を終えて舞台を下ろされたその時こそ、彼の新たな生に心の底から祝福してやろう。
そして、その全てを手に入れるのだ。

その甘美な瞬間を想うだけで、軽い絶頂感を魔術師は覚えるのだった。

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