還り着く場所(5)

 オルレアンへの派兵が決まり、初めて迎えた朝。
 あの昇りゆく日の光は今もこの目に焼き付いている。

 心地よく張りつめた空気の中、新たな一日の始まりを告げる太陽の一矢が、ヴィエンヌ河に差し込む光景を目の当たりにした時、ああ、世界はこんなにも美しかったのかと、ジルは呆然とした。
 少女の放つ輝きに照らされて、青年の目に映る世界もまた、急激に彩度を増したようだった。

 四肢に力が漲っているのがわかる。不思議な気分だった。
 まるでたった一晩のうちに、新たな自分に生まれ変わったようだった──

「──まったく、貴方と出会ってからというものの、いつも私は冷静でいられなくて、自分で自分に戸惑ってばかりでした」

 周囲の思惑に翻弄されながら、見えぬ神の姿を探し、己の存在の意味を問いかける毎日。そんな若い男爵の日常に突如舞い降りた神の使い。
 それまで当たり前だったものの全てが、聖女という新たな秩序によって、塗り替えられていった。

 栄光への階段を昇ってゆく、驚きと喜びに満ちたあのひととき。
 青年の生涯で、最も充実していたその時間には、常に彼女がいた。

「まあ、男爵様は本当に賢くていらっしゃるのね」

 心底感心した様子で『ロレーヌの乙女』ことジャンヌが微笑む。
 さながら、自分が目をかけていた生徒が、望んだ回答を導き出した事に満足する教師のように。あるいは、息子の成長を喜ぶ母のような調子で。

 本来、七つも年下の小娘に言われたら、腹が立つのを通り越してその厚かましさに呆れるしかない台詞だが、ジルは微苦笑と共に、その言葉をありがたく拝領するだけだった。

 実際、聖女は常人では計り知れない存在だった。

 オルレアンの解放へ向かうにあたり、シャルル王太子は新たに彼女に対して甲冑一式と馬を贈った。清らかな姿に相応しい、白銀に輝く鎧と白い馬を。
 その贈られたばかりの白馬を、つい先日、田舎から出てきたばかりの百姓の娘が見事に乗りこなしてみせたのだ。その様子に本職の騎士であるジルとラ・イールが舌を巻いた。

 一朝一夕で身に着けられる技術ではない。自らも優れた騎手であるジルだからこそ、この娘の実力が付け焼刃でない事はすぐに理解出来た。
 だいたい、幼い頃から馬に触れる機会がある貴族であっても、ここまで見事な手綱さばきを見せられる者はそういないのだ。ましてや、ただの農民が何故、ここまで初乗りの馬をさも当然のように操る事が出来るのか。ヴォークルールからの出立前に簡単な手解きを受けていたとしても到底考えられない事だった。
 愛らしくも勇ましい女騎士の姿に、ルネが見たら泣き出しそうだな……とジルは思ったものだ。

 この少女は本当に何者なのだろう。
 一体、何処から来て、何処へ行こうとしているのか。
 農民の娘、やんごとなき人物のご落胤──耳に入ってくる噂は、どの話ももっともらしく聞こえる一方で、いずれも腑に落ちる答えではなかった。

 ジルの中で、乙女の出自はますます神秘を増すばかりだった。

 そんな彼の胸中を知ってか知らずか、奇跡の少女は屈託のない笑顔で、彼女の後見を務める若い男爵の顔を覗き込む。
 叔父であるトレモイユ卿から「くれぐれも目を離さないように」と言い含められていたが、ジルが特別注意を払うまでもなく、彼女は彼に心を許し、むしろ懐いてくれているようにさえ見えた。

「──この時代の殿方ときたら、皆さん子牛並の脳味噌しかお持ちでないのかと不安でしたが、そばにいる貴方がお話の分かる方で、本当に良かった」
「お褒め頂き光栄です。
 ですが、貴族と言えど、全てのものが等しく教育を与えられる世の中ではないのです。ましてや、貴女のようにとりわけ主の恩寵に恵まれる者がいるわけもない。
 どうか、無知で無学な我々をお許し下さい」

 この聖女にしてフランスの救世主である少女が、時折、優しい笑顔で苛烈な言葉や辛辣な評を下す事に、他の幕僚達は閉口していたが、ジルは特に腹を立てる事もなく、今も軽く受け流している。

 馬術の巧みさにも驚かされたが、それ以上にジルを感嘆させたのは、乙女の底知れぬ知性の深さだった。

 ──広く世界の歴史上に知られるジャンヌ=ダルクは、当時、多くの人々がそうだったように、読み書きは全く出来なかったと言われている。
 戦場における作法、戦術の基礎の基礎も知らない。全くの素人が、前線に乗り込み、その身に纏う神の奇跡と勇気だけで、押し寄せるイングランド軍を蹴散らし、敗戦続きだったフランス軍に勝利を齎したのだと。
 故に、彼女は『奇跡の少女』と呼ばれている。

 だが。
 ジルだけは知っている。
 彼女はただ、『フランス語』の読み書きが出来なかっただけなのだ。

 それに気が付いたのは、ジャンヌ自ら「読み書きを教えて欲しい」と頼まれた時だった。

「せめて、自分で署名ぐらいは出来るようになりたいんです」
 すこし照れ臭そうに言う少女に、
「それは素晴らしい。
 貴女自らがしたためた文字のある皮羊紙ならば、そこにも神威が宿りましょう」
 ジルは鷹揚な笑顔で請け負ったものだ。

 そこで机の前に彼女を座らせ、ジャンヌが筆を執った時──ふと、ジルは呟いた。

「……乙女よ。
 貴女は本当に文字を習った事がないのですか?」
「え?」
「いや……恥ずかしながら、私が初めて教師に文字を習った時は、ペンの握り方もよく分からなかったものですから。
 貴女が特に迷うことなく、ペンに指を添えた事に驚いたのです」
「………………」

 言われた聖女はペンを持ったまま、しばらく沈黙を守っていたが、やがて二人だけの部屋の中に、机上を筆が走る小さな音が、いらえの代わりに返ってきた。
 皮羊紙の上に記されたものに、ジルが瞠目する。
『主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る』──聖書の中の詩編が、美しい文字でそこにはあった。完璧な文法のラテン語で。

「……本当に貴方は……貴方だけは私の事をよく見て下さっているのですね。男爵。
 ご推察の通り、私は全く読み書きが出来ないわけではありません。
 ただ、フランス語の知識だけ与えられていないのです。
 『神様』がそうお望みでしたので」
「………………」

 今度はジルが沈黙する番だった。
 わけが分からなかった。
 ラテン語に長けた農民など、馬術に秀でた娘以上にありえない存在だった。

「でもこれは内緒。
 私と、貴方だけの秘密にして下さい」
「…………はい…………」

 あのシノンでも見た悪戯っぽい笑みを浮かべて少女が言う。
 ジルは頷くだけで精一杯だった。
 頭が混乱していた。
 何か自分はこの少女をめぐる、とてつもない陰謀に加担してしまったのではないか。そんな気すらしてきていた。

 それからというものの、「読み書きを習う」というのは、二人きりで時間を過ごす時の良い口実になった。

 辺りが消灯し、他人の目が無くなると、二人して様々な事を語り合った。
 故郷の事。家族の事。そういった何気ない会話から始まり、興がのってくると、いつしか信仰についてや政治についての議論へと発展する。
 少々意地の悪い問いかけをジルがしたとしても、ジャンヌはあっさりと切り返して見せた。
 少女と会話を重ねる度、ジルは己の視野の狭さ、知識の浅薄さを思い知らされた。
 信じられなかった。
 それほど、彼女が『神様』から得た知識は多岐に渡り、またそれについて考察する頭脳もまた、人並み外れたものだった。

 性別など関係ない。これほど弁が立つ人間に、ジルは出会ったことがなかった。

 自分も当時にしては、軍務の傍ら、かなり学問に励んだつもりだったが、もはやそういう次元の話ではないのだろう。
 目の前の少女が、自分よりもはるかに高い見識と能力を持つ人間だという事を、ジルは素直に受け入れ──聖女に対する興味は、畏敬の念が重なる事により、更に深いものになっていった。

 ジャンヌもまた、彼女の『講義』に戸惑いながらもしっかりとついてくる男爵の反応が、嬉しくて仕方がないようだった。

 やがて逢瀬を重ねるうち、彼女もまたジルの秘密を知るようになった。
 人の身を捨てた、騎士の姿を借りた怪物の正体を。
 これで少女との甘い時間も終わりだ──そんな覚悟を決めていたのに、聖女はわけもなくその事実を受け入れ、変わりなくジルを傍に置いた。

「貴女は私のようなものですら、分け隔てなく慈しんで下さるのですね」

 ごく穏やかな口調の中に、少女の自分に対する恩情に感動を噛みしめながら、ジルは言った。

「貴女の力は素晴らしい。
 お傍にいるだけで、私が抱えている人ならざる者の気配も宥められ、浄化されていくようです」

 破壊しか生まない自らの力とは違い、聖女の光はあらゆるものを慰め、生きる為の勇気を奮い立たせる。そう称えるジルに対し、

「力は力です。
 本来、力に正邪も善悪もないのです。
 ただ、私と貴方の持つ力に与えられた役割が違うだけ。
 私が持つ力が素晴らしいのであれば、貴方の持つ力もまた、素晴らしいものなのですよ」

 全てを受け止める微笑みに、どれだけ救われた事だろう。

 互いに秘密を共有する事で、かえってジルに対してより心を開いてくれた。そんな風にさえ感じるのは気のせいだったろうか。

「男爵閣下。貴方は本当に博学で聡明な、素晴らしい男性です。
 これは、『神様』からあまり人に話してはいけないと口止めされていたのですが、貴方にだけは話してしまいますね」

 そして彼女はジルに語り出す。
 『神様』から見せられた、ここではない『遠い世界』の話を。

 当時はまさに何かのおとぎ話にしか思えないような世界の話だった。

 おそらく、仮に少女がジル以外の誰かにこれを話したとしても、『少女の妄想』『よく出来た吟遊詩人の作り話』で済ませて相手にしなかっただろう。
 正直な話、ジルでさえ、想像のおいつかない世界を、辛うじて噛み砕きながら呑み込んでいくので精一杯だった。

 ──いわく、『遠く離れた場所でも、相手と顔を見ながらやり取りが出来るようになる』、『部屋に楽隊を呼ぶ必要もなく、音楽は楽しめる』、『馬より早く異動する手段が可能になる』、『空に輝く月にすら、人の手が届くようになる』──

 そう。500年を経た今であればこそ、はっきりと理解出来る。
 それは、全て戦いに明け暮れる自分達の時代から遥か先にある『未来』で起こる出来事だった。

「……そうですか。
 その世界では貴女のような平民の子女であっても、分け隔てなく教育を受ける事が出来るようになるのですね」
「ええ。黒死病の猛威にさらされて、街が消える事も、夜盗に襲われて村が焼かれる事もない──この時代からしてみれば、夢のような世界です」
「素晴らしい。
 本当にそんな世の中になるといいですね」

 ただ、彼女が知った未来についての情報は、必ずしも希望に溢れるものだけではなかった。

 二度の世界大戦、その闘争の末に一度に百万の民を焼く核の炎が生み出される事、人の身勝手で神の被造物である多くの鳥や植物達が世界から消える事──少女一人には耐えられないような、重苦しい『現実』もまた、容赦なく背負わされていた。
 ──これはあくまでもジルの推測だが、大戦が起こる事を知らされていたのだ。その争いの前に、このフランス『王国』が消えるという事も、彼女は知っていたのかもしれない。

 そんな世界を垣間見せて、造物主は少女に何をさせたいのだろう。
 このフランスとイングランドとの戦いの行方自体には、何も関係のない情報ではないのか。

 彼女が抱えるものにどこか薄ら寒いものを感じて、ジルの表情が自然と険しくなった。
 そんな青年の表情を見て、ジャンヌが慌てた様子で言った。

「あ、『神様』が下さる啓示や見せて下さる世界は、こちらで選ぶ事が出来ないので辛い時もありますけど……多分、伝えてこられる『神様』も同じくらいお辛いのだと思いますし……それに……」
「……それに?」
「私が見た世界は、必ずしも私達がいるこの世界と繋がっているとは限りません。
 『神様』は全てこの『刻の断片』は『可能性』だとおっしゃいました。
 今生きている私達が頑張れば、きっと素敵な世界に未来は繋がっていくはずです。
 そう、だからきっと、この戦争もフランスが勝利します。
 貴方と私、ラ・イール隊長達が力を合わせているのですから。
 平和と調停の時代が、必ず私達の王国にやってきます……!」

 立ち上がり、力強く言い切った。
 そんな鼻息も荒く、頬を好調させている少女を安心させるように、ジルは淡く微笑んだ。

「……申し訳ない。
 私が貴女を励まさなければいけない立場であるのに。
 つい、深く考え過ぎてしまいました。
 お許しを。乙女よ」
「いえ……私こそ。
 お話を聴いて頂けただけで、何だか少し気分が楽になりました。
 ありがとう、男爵様。
 貴方が傍にいてくれて、私は救われました」

 微笑み返す彼女に、ジルは何ともくすぐったい気持ちになる。
 そう、この時はまだ、ジャンヌは自分の事を『男爵様』あるいは『将軍』とだけ呼んでいた。
 自分もまた、多くの人々と同じように彼女に対しては『乙女』、と一歩退いた形で接するのが常だった。

 ああ、そうだ。
 彼女が自分を『ジル』と名前で呼んでくれるようになったのは、ようやく迎えたランスでの戴冠式での事だった──

 

 

◆◆◆

 

「よお、元帥閣下。
 百合の紋がお似合いだな。
 色男がますます立派になりやがって。
 さすがの俺も嫉妬しちまうぜ」

「王国中の女の視線を独り占めするつもりか」などと笑いながら、盛装したラ・イールが気さくに声をかけてくる。
 自分と同じく、王太子をこのランスの地へと導いた立役者の一人である戦友は、豪快に笑いながら、その逞しい腕をジルの肩に回した。

 ──1429年7月17日。

 先刻、ノートルダム大聖堂で行われた戴冠式は、実に厳かで壮麗なものだった。
 多くの人々に祝福され、王太子シャルルはここに、晴れてフランス王シャルル七世となった。

 祭壇の前に立つ新しい王の神々しい雄姿に、そのすぐ足下に控えていたジルは、自然と目頭が熱くなるのを感じた。
 この晴れの日に、彼は初代国王クローヴィス以来、千年続く慣例に従い、式典に必要不可欠な聖油を奉持するという大役を任されていた。
 この身に余るほどの栄誉に、改めて騎士は彼の王に深い忠誠を誓ったのだった。

「何の事は無い。
 私はリッシュモン殿の代理に過ぎぬよ。
 私ごとき若輩が伯爵の地位を掠め取るなど……本当に申し訳なく思っている」

 同じブルターニュを郷里とするフランス最高の将軍であり、政治にも辣腕を奮う才人の無念を想い、ジルは目を伏せた。
 本来、天から舞い降りた鳩から受け取ったという伝説が残る聖油瓶を王の下へ運ぶ役目は、王国第二位の地位にあたる王国軍最高司令官、すなわち大元帥の地位にある者が務める事になっている。
 シャルル王やその側近の不興を買い、この晴れの舞台への出席をとうとう許されなかったリッシュモン伯に代わり、24歳の青年は、今や国王に次ぐ華々しい地位にあった。

 この唐突とも言える青年の昇進を推したのは、叔父で国王の侍従長であるドゥ・ラ・トレモイユだ。
 叔父は政敵であるリッシュモン伯を何としてでも宮廷から締め出したいらしい。そこで適当な理由をつけて、ジルをこの地位に据えたのだろう。
 さらに国王は、男爵に対し、王家の紋章である百合の花を、家紋の意匠として使用する事を許したのだった。通常、陪臣の身では考えられぬ厚遇と恩情であった。
 オルレアンから始まったこの戦いで、とりわけ目立った軍功を立てた覚えのないジルは、あまりの事に恐縮しきりだった。

「そうか?俺はあのすかした野郎より、お前さんが聖油瓶の運び手になって心底良かったと思っているけどなぁ」
「おい。王家の直臣である伯爵に対して失礼だぞ……」
「いやぁ。式典を見物していた聴衆は、みんな口を揃えて言っていたぜ?
 『今度の聖油は、鳩じゃなく大天使ミカエル様が運んできた』ってな」

 若く力に満ちた国王に、奇跡を呼ぶ可憐な聖女、そして凛々しくも美しい騎士の青年の姿に、民衆は熱狂した。
 暗い時代はもう終わりだ。フランスは神の庇護の下、真の平和を取り戻すのだと。
 まだ王都であるパリを取り戻したわけではないのに、気の早い話だ、とジルは思ったが、国王すら頂く事を許されなかったフランスの未来に、やっと希望の光が挿したのだ。彼らの歓びもまた、理解出来ないものではなかった。

「ミカエルとはまた大袈裟な……だが、お世辞でも祝ってもらえるのは嬉しい。ありがとう」
「世辞が言えるほどこちとら器用な人間じゃねえよ。
 ……しかし、だ。男爵様も随分と人間が丸くなったというか、可愛くなったもんだな」

 にやり、と笑って傭兵隊長が言う。

「可愛くなったと言えば、聖女様もここ最近、とみに可愛くなったと評判でな。
 昨日の晩もさぞかし二人して楽しんだんだろうな。羨ましいことで」
「楽しむ?一体何をだ」
「……何っておい。
 お前さんも水臭ぇな。
 どうだ?聖女様のあそこの具合は。
 生娘だから締め付けが最高だろ。
 紳士な元帥閣下の事だ。毎晩ご丁寧な前戯をしながら可愛がってやってるんじゃないのか?」
「……なっ、
 何を言っているんだ、貴公は!!」

 周囲の目も憚らず、思わず大声を上げるジル。

「私は乙女の純潔を護る騎士だ……!
 その私が、彼女をて、手籠めにするなど……っ!!」
「お、落ち着け男爵!落ち着けって!!
 ……するってーと、何か?
 お前さん、ここまできて、まだあの娘に手をつけていないと、そういう事なのか !? 」

 「信じられん……」と、異様なものを見る目で、じりじりと後ずさりながら、ラ・イールが首を振る。
 信じられないのはジルの方だった。
 この男は、ずっと生真面目にジルが聖女を警護する様子を見ながら、自分が彼女と出来上がっているものと思っていたのか。

「この……
 貴公が呑気に遊郭に通っている傍で、私が一体どれだけ苦労したと……」

 陰鬱な表情で何やら恨み言を呟いている男爵には目もくれず、傭兵隊長は天を仰ぎながら、なおも「理解に苦しむ……」「あの腰についてるもんはハリボテか」などと失礼千万な事をほざいている。

 確かに、これまでもラ・イールは、乙女とその騎士が夜を一緒に過ごす時、「哲学者ヅラしながら、しっぽり楽しみやがって。このスケベ男爵!」と言って憚らなかったが、まさか本気だったとは……
 怒りから一転、傭兵隊長の自分に対するあまりの信頼の無さに、言葉も出ない。

「~~~~~~~っ」

 力なく頭を抱えて膝をつく元帥。
 そんな戦友に、それまで天を仰いで神に問いかけていた赤毛の巨漢が、やおら肩を掴むと、据わった目で迫ってきた。

「おい、この苦行僧野郎。
 だったらこうして戴冠式も済んだ事だ。いい機会じゃねえか。
 昇進祝いだ。今夜一発、ぶち込んで来い」
「だからいい加減にしろと……!」
「なんだ、お前さん。
 噂通り、男色専門だったのか?」
「そんなわけないだろう!
 真っ平らな男の胸なぞ、見たところで萎えるだけだわ!」
「じゃあ、あの娘っ子はお前さんの好みじゃなかったと」
「……………………」
「そうなのか?
 俺はてっきり……」
「…………………………好きだよ」

 石畳に視線を落としながら、ぽつりと青年が零した。

「認めよう。
 私は彼女が好きだ。どうしようもなく好きだ。
 愚かしいほどにな」

 ああ、そうだとも。
 もうこれ以上、自分を偽りようがない。

「──私は彼女を愛している」

 彼女の全てを手に入れたくて、しかしそれが叶わない現実に、気が狂いそうになるのだ。

 このたった数カ月の間に、ジルの中で少女の存在はとてつもなく大きくなっていた。
 秘密の時間を過ごす度、戦を勝ち抜く度、自分に見せるジャンヌの表情が、仕草が、網膜に焼き付いていく。記憶に深く刻まれていく。

 そしてある夜、彼女を割り当てられた部屋へと送った後、一人寝台の上に身体を投げ出しながら、気づいてしまったのだ。
 少女を『王国を救う救世主』としてではなく、『一人の女性』として見ている自分の心に。
 他でもない自分が、道ならぬ恋に身を焦がしているという結論に至り、ジルは呆然とした。

 一度己の中の真実に気づいてしまうと、楽しかった彼女とのひと時も、恐ろしい忍耐を強いられる修行の場と化した。
 ジルがいくら懊悩しようと、聖女は唯一、話題を共有出来る男爵の下へ、今日も嬉々としてやってくる。

 幸い、ジルの努力の甲斐あって、聖女は彼の中で膨れ上がってゆく感情に気が付いていないようだった。
 傭兵隊長の愛の籠った冷やかしにも、内心冷や汗をかきながらしかめ面を作っていたジルに対して、いつもジャンヌは楽しそうに笑うだけだった。

 それが、余計にジルを複雑な気分にさせた。

 陣中に夜の帳が降りた後、満点の星の下、松明がわずかに照らす宵闇の時に、浮かび上がる白いうなじ。ほっそりとした指先。 相手は年頃の娘で、男装してなお、女性的な魅力を隠し切れていない麗人だった。
 そんな少女が無邪気に肩を寄せてくる。時に男の手を握る。
 ジルもまた若かった。この状況でそういう気分にならない方がおかしい。

 ただ、少女が自分に向けている無条件の信頼を裏切りたくない──その気持ちだけで、彼は最後の一線を踏み越えずにいた。

 最初は、フランス全軍の旗頭である聖女の純潔を何としてでも守らなければならない、その義務感の方が強かった。 そしてこれは確かに、ジルとラ・イールが粛々と彼女に従う姿を見せる事で、功を奏していたのだった。
 あれほど気を揉んでいた粗野な傭兵達、高慢な貴族達も、乙女に対してはごく好意的な対応を見せ、特に傭兵や志願兵達の間での『オルレアンの聖女』の人気は今や絶大だった。自分達と同じように、平民の生まれである少女が、貴族と対等に渡り合うのが痛快だったのだろう。

 しかし、結果として、青年は自らを最も辛い立場に置く事になってしまった。

 聖女が与える希望はおしなべて公平なものである。乙女は誰のものでもない。彼女はフランスに恩寵を齎す神の花嫁なのだ。
 ──凡百の男が手を出して、許される存在ではない。

「…………っ」

 彼女は自分に心を許してくれている。
 それはあくまでも自分が、『聖女を護る騎士』としての立場に徹しているからだ。
 真理を探究するのを喜びとする賢者気取りの男爵の正体が、そこいらの男と変わらない獣の欲を持った人間だと知ったら、彼女は自分に失望し──きっと軽蔑するだろう。

 ましてや自分には妻がいる。望んだものではないにしろ、教会の秘跡を受けられるのは一度に一対の男女だけだ。婚姻が認められた妻以外と通じる事は、神に対する背徳行為であり、その裏切りを、聖女である彼女が許容するはずもない。

 何より、自分はもう、人ですらなかった。
 いずれそう遠くはないうちに、今の世界から去らなければいけない存在だった。
 ──いくら考えたところで、自分と彼女が幸せになれる道は残ってなどいないのだ。

 だったらこのまま、彼女の保護者として、共に戦場をかけた輩として、記憶に留めてもらえた方がよほどいい。

 彼女を裏切りたくない──そのもっともらしい言い訳に隠された本音は、『彼女が自分を見てくれなくなる事が恐い』──そんな情けないものだった。

「惨めなものだろう……笑ってくれても構わない。
 私は自分で自分の策に溺れた馬鹿な男だよ」

 このままだと臆面もなく泣き出してしまいそうだった。
 最後の矜持で、力なく傭兵隊長の腕を振りほどこうとする青年に、

「別におかしいことなんてないさ」
 旧くからの戦友は、ごく真面目な眼差しを向けて言った。

「それじゃあ何か?お前さんはこのまま禁欲を通した挙句、澄ました顔して自分がキリスト様にでもなるつもりかい」
「まさか……そんな事出来るわけがない」
「そうだよな。そんな真似したところであの聖女様は悲しむだけだ。
 ……なあ、男爵よ。この戴冠式、すぐ隣であんなキラキラした目をして喜んでいる乙女を見ても、お前さんは何も思うところはないのかね」

 こう問われて男爵は憮然とした口調で答えた。
 あえてこの男に指摘されるまでもなく、彼女に付き従う全ての幕僚が理解している話だ。

「……それは……ようやく念願叶って陛下がこの地で聖別されたからだろう」

「ばっかいえ!
 あの聖女様はもう貧乏臭ぇ陛下の事なんぞ見てねぇよ!」
「なっ……」
「どんだけ鈍いんだこのトーヘンボク!
 惚れた男の晴れ姿が嬉しかったからに決まってんだろうが!」

 不敬にもほどがある台詞を吐き捨てて傭兵隊長が凄む。
 それをたしなめようとして、若い元帥は、彼が放った言葉の意味を改めて咀嚼しながら、動きを止めた。

「惚れた……男だと?」

 それは一体誰の事だ。
 自分の事なのか?

 不思議そうな顔をしてこちらを見ている青年に、ラ・イールは大きく一息つくと、元帥の秀でた額をごつい指で弾いた。
「いっ……」
「……色恋沙汰にとことん疎い元帥閣下に百戦錬磨の俺様が特別に講釈してやるけどよ。
 お前さん、今日の今日まで乙女が綺麗な身体のままでいられたのが、まさか神の御加護の賜物なんて思っちゃいないよな」
「…………」
「たまりにたまった傭兵の前で、いくらありがたい説法をしたところで改心なんぞしやしねぇよ。
 奴等の望みはえらく即物的だからな。
 罰当たりなのを覚悟で聖女様の具合を確かめたい奴等はいくらでもいる。他ならぬお前さんがシノンで言ってた話だ」

 そうだ。だからこそ自分は少女の傍らに常にいた。
 だが、その自分が耐え難い誘惑に負けようとしている。

「まあ傭兵の奴らは本能に忠実なだけだが、貴族の奴等ときたらもっと性質が悪い。
 口では耳障りの良い事をほざきながら、あの娘を自分の都合のいい玩具として使うつもりの連中はいくらでもいるぞ。
 それでもここまで、いくら危ないところがあっても、最悪な目に合わずに済んだのは、他でもない。
 連中、俺とお前さん、そしてアランソン公の三人が恐くて手が出せなかっただけなのさ」

 この戴冠式において貴族の総代を勤め上げたアランソン公は、シノンの宮廷でジャンヌと引き合わされて以来、熱烈とも言える彼女の支持者だった。
 尊ぶべき王家の血筋である若い公爵は、日頃から物腰も柔らかな美男子として評判であり、宮廷の華でありながら、戦場においても勇ましく、人望も厚かった。
 ジャンヌもまた、彼女の言葉を信じ、ジャンヌが動きやすいように貴族の中で立ち回る公爵には、深い信頼を置いているように見えた。

「中でも男爵、お前さんは戦場ではおっかない事で知れ渡ってるからな。
 加えて、あの宮廷を牛耳ってる侍従長とも親類で、リッシュモン伯やヨランド王妃の覚えもいい。
 敵に回したら厄介だ。
 みんな仲良く指咥えて見ているしかないのさ。
 分かるか?もう兵隊どもの中では、お前さんと乙女は殆ど公認の仲なんだよ」

 腰に手を当て、心底呆れたように傭兵隊長は溜息をついた。

 つまりだ。
 聖女を聖女として敬い、奉ろうとしていたのはジルばかりで、他の者は初めから自分達を男と女として見ていたと、そういう事か。
 己のあまりの滑稽さに、ジルの全身から力が抜けそうになる。

「このところ荒くれ者共の間では、乙女がアランソン公とお前さん、どちらのものになるか、ずっと賭けの対象になってるんだぜ?
 そこで、俺の部隊はお前さんの方に大金をかけているわけだ」

 ラ・イールがおもむろにジルの背後を指差す。

「──だから、とっととものにしてこい」

 振り返る先には、興奮冷めやらぬ民衆に取り囲まれたジャンヌの姿があった。

「……俺達軍人は、明日の我が身がどうなるか知れたもんじゃないんだ。
 後悔のないようにしておけよ」

 諭すような言葉に、こちらに気が付いた乙女の朗らかな声が重なる。

「ジル──!!」

 男達の会話など知る由もなく、愛らしい女性の姿が自分の方に近付いてくる。
 込み上げてくるものに、ジルの身体の中心が否応なしに熱くなった。

 ふわりと、腕の中に飛び込んでくる細い少女の身体。

「しかしあいつ等、俺の事はしっかりはぶりやがって……俺だってなぁ……」などと文句を垂れている傭兵隊長の声は、もはや元帥の耳には届いていなかった。

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