還り着く場所(4)

「……そう。まだあの時の私は、初対面であそこまで心を射竦められながら、それでも貴女を、自分でどうにか出来る程度の存在だと考えていたのです」

 当時の事を思い起こす語り部の口調は、在りし日への愛おしさにあふれ、穏やかだ。
 幾世紀の時を経ても、未だジルの脳裏には昨日の事のように、情景が、会話や仕草の一つ一つが、浮かび上がる。

 戦場に出るのはあくまでも男の仕事。
 女は後方でその勝利を信じて待つもの。愛しい女を守る為に戦う事に彼らは充足を覚える。
 真っ当な軍人であればあるほど、そう考えるのも当然だった。

 シャルルと聖女、両者の顔を立てる為、ラ・イールと自らの軍でもって丁重にオルレアンへ彼女をエスコートし、市民や兵隊達の前で演説の一つでもしてもらおう。
 あとは、街への食糧や物資の配給、怪我人の手当の場面で適当に彼らと触れ合って貰えれば、あれだけの高徳と聖性の持ち主である。それだけで十分人々は癒され、勇気を与えられるだろう。

 そこからいかにしてイングランド軍と渡り合うかは、自分やラ・イール、そしてこれまでオルレアンの防衛にあたってきたデュノワ伯の腕次第だ。

 進軍のきっかけを男達に与えた時点で、聖女の役目は半ば終わったようなもの──のはずだった。

 そんな自分をめぐる思惑を知ってか知らずか、ありがたい神託を宮廷に届けに来た乙女その人は、相変わらず長旅の疲れを感じさせない溌剌とした表情で、ジル達の前に現れた。

 聖女の前では太陽の光すら遠慮するのか、旅路の中でも白さを失わない滑らかな頬。吸い込まれそうに深く澄んだ蒼い瞳。一度目が合えば何もかも見透かされてしまいそうで、視線を交わすのが恐ろしくなる。

 今は意図的に抑えているのか、先刻感じたほどのプレッシャーは無かったが、凪いだ海面を思わせる、静けさの中に秘められた底知れぬ力、冒し難い存在感はやはり圧倒的だった。小柄、というわけではないが、決して男達とやり合えるような立派な体格をしているわけではない。なのに女性らしい柔らかな線を描く細い身体は、不思議なほど大きく感じられる。

 見れば見る程、これが農民の娘か?と首を傾げたくなる女性だった。
 聖女を娘っ子呼ばわりしていた傭兵隊長も、自然とその居住まいを正していた。心なしか、傲岸不遜で知られる横顔も強張っているように見える。

 ──全てを慈しみ清めるような聖性を放ちながら、それでいて、何者にも媚びる事もない凛とした佇まい。まさに幼き日に思い描いていた聖母そのものではないか。
 改めて『ロレーヌの乙女』の姿を間近にして、ジルは感動を覚えていた。この白百合のような女性と出会う為に、自分は宮廷に来たのかもしれない。

 彼が見失っていた神の存在を感じかけたその時、目の前の少女がいきなり微笑んだ。
 完全に不意打ちだった。今度こそ殴られたような衝撃がジルの脳髄に奔った。
 周囲の空気すら色鮮やかに変わったようだった。
 その見事な微笑みに見惚れたまま、言葉を返せないでいると、白百合の化身はさらに続けて言った。

「わたくし、この度、王太子様から軍を預からせて頂く事になりました、ジャンヌと申します。
 フランスを救う為、これよりオルレアンに向かいます」

 なんて真っ直ぐで迷いのない目をしているのだろう。
 隣でラ・イールが息を飲んでいるのが分かる。二人して金縛りにあったように動けないでいた。

「貴方の武勲については王太子様やトレモイユ卿から伺いました。
 この国でも随一の軍団をお持ちだとか。頼もしそうな方で何よりです。
 私の下でもその力、存分に奮って頂ける事を期待していますよ」

 圧倒的な存在でありながら、どこか現実感を伴わない少女が、そのほっそりとした指で固まったままでいる男の手を取った。
 ──らしくもなく、神妙な顔で聖女の言葉に聞き入っていたラ・イールの手を。

「………………はい?」
「オルレアンの皆さんは、わたくし達の来訪をずっと待ち望んでいるのです。
 一刻も早く希望を届けに参りましょう……!」

 少女の柔らかな手の感触に我に返った傭兵隊長が間の抜けた声を出したのにも気が付かずに、乙女ジャンヌは力強く言い切ると、今度はジルに顔を向けて朗らかに言った。

「それで、男爵様。
 こちらの美しい御婦人は、奥方様ですか?」

 ……ジルの咳払いと、ラ・イールの大笑いが夜の静寂に木霊した。

 

◆◆◆

 

「……えーと……ジルはあの時の事、まだ怒っていたりしますか?」

 静かに青年の昔話に耳を傾けていた亜麻色の髪の少女──ほかならぬ『救国の聖女』であるジャンヌが、おずおずと言葉を切り出す。
 珍しく相手の機嫌を伺うような上目使いの視線を受けて、白髪の貴公子は大仰な溜息と共に肩を落とし、一言。

「ええ、それはもう。とても傷つきましたので」
「………………」

 気まずい沈黙。しばしの間、陰鬱な視線を石畳の上に這わせていたものの、うう、といたたまれなさにまた涙目になり始めている少女の様子を一瞥して、ジルはこらえきれずに吹き出した。

「ははは、まさか貴女がそこまで気に病んでいたとは、正直思っていませんでした」
「だ、だって、あの時のジル、本当に恐い顔をしていましたし、実際、人伝に凄く気にしていると聞きましたから私……」
「まさかまさか。もうとっくに時効ですよ。
 確かに何も感じなかったかと言えば嘘になりますが、その時、私が気にしていたのはもっと別の事でした」

 

◆◆◆

 

「は、はは。ひひっ、これは傑作だ!
 さすがの聖女様も男爵と俺の見分けはつかなかったらしい」

 いかにも『最強の軍団』の主に相応しい風格の持ち主である傭兵隊長は、涙さえ流しながら、むっつりとした表情で押し黙っているジルの肩を叩いた。

「?……え、ええ???」
 一瞬前の神々しさはどこへやら。
 ごく普通の可愛らしい少女の顔で、目をぱちくりさせながら二人を見比べている『ロレーヌの乙女』。
 そこへ追い打ちをかけるように、一際低い声でジルが呟いた。
「……私が、貴女の警護を務めさせて頂きます……ジル=ド=レイです」
「ええーッ !? 」

 そう叫びたいのはこちらの方だ、と内心、泣きたい気分でジルは悪態をついた。

 人の身を捨てた事に後悔はしていないが、時期だけは誤っていたと常々思っていたのだ。
 大人の男に一歩足を踏み入れかけた時点で止まってしまった己の身体。元々繊細な面立ちの上、きめ細やかな肌は体毛も薄く、いくら鍛えても筋肉が太くならない体質の為か、いつまでも中性的な印象をジルの姿に与えていた。

 一見すると凛々しい美女と見紛う容姿ゆえ、戦場や宮廷でも何かとおかしな目で見られる事が多い。教会の司祭ですら自分に対する好色な視線を隠さないのだから世も末である。幼い頃から油断していると際どい場面は何度もあった。
 当然ジルに『その気』は全くなく、彼らが寄せる熱い期待は不愉快な事この上なかった。これで上背や身分が少しでも欠けていたらと思うとぞっとする。

 とはいえ、実際は選択肢などない状況であったから、これもまた運命として受け入れるしかない。

「も、申し訳ありません、男爵様……貴方のように綺麗な殿方を見るのは初めてだったので……」
 恐縮しきった様子で少女が詫びる。

 聖女にここまで頭を下げられると、逆にこちらの方が居た堪れない気持ちになってくる。

「まあ仕方がありません。私も貴女にお会いするまで、男爵ほどの美女は、ついぞ目にした事がありませんでしたからなあ」
 うんうんと頷いてラ・イール。
 そういえば、この男も初めて会った時には自分を侮って憚らなかったな……と、嫌な記憶を呼び起こされ、ジルの渋面がさらに深くなった。

「しかしこんな面構えですが、陛下達の言う通り、男爵の腕は確かです。
 この御仁は間違いなく男の中の男ですよ。
 股座についているものも大層立派ですしな。私が保証します。はっはっはっ!」

 この手の軽口は前線にいる傭兵には付き物だったが、意外にも聖女は嫌な顔をするわけでもなく、「まっ」と目を見開いて一言、軽く唇を指で抑え、そのささやかな笑いを堪えただけだった。

「では、改めまして。よろしくお願い致しますね。勇ましい将軍閣下」
「……はい」

 どんなに憤ってみせても、いざこの少女の聖性に触れてしまうと、途端に気分が凪いでしまう。

 己の手に重ねられた聖女の指先からあの光が染み込んでくる。気分が安らぐままに、己が内にある人ならざる力まで浄化されてしまいそうな気がした。

 ──それにしても、自分はこれほどまでに、彼女の存在に脅威を感じているというのに、彼女は自分に触れて何も思うところはないのだろうか?
 この程度の魔性の気配など問題にならないほど彼女の力は強大なのか、それとも先程ラ・イールと自分を間違えたように、あらゆる真理を見透かすかに見えたその神通力は、ただのまぐれに過ぎなかったのか。

 己の何もかもが暴かれてしまいそうで恐ろしくもあり、それでいてどうしようもなく興味を魅かれてしまう。
 出会ってからわずかな時の間に、ジルの心は完全にこの少女に捕らわれてしまっていた。

 ……だが。
 妙な多幸感に包まれる中にも、冷静な将軍の頭脳は、聖女の言葉の中に、決して見逃す事の出来ない引っ掛かりを覚えていた。
それは横に並んでいた傭兵隊長も同じだったらしい。

「……なあ、男爵」
「如何した」
「あの聖女様……『王太子様から軍を預かった』と言ってなかったか……?」
「ああ」

 「ではまた後ほど」と爽やかな気配だけをその場に残して、去っていく背中を見送りながら、男達が呟く。

「確か、『私の下で力を奮って欲しい』、とも聞こえたが?」
「間違いない。
 司令官はアランソン公だと、私は聞いていたはずなのだがな」

 少女の言動を互いに確かめるように反芻した後、傭兵隊長が頭を抱えて絶叫した。

「……おいおいおいおい!
 全然話が違ってきているじゃねえか!!
 あの聖女様は、自分で兵隊共を率いて戦う気満々だぞ……!」
 そらみたことか、とわめくラ・イール。

「実に猛々しい事だ。傭兵達が驚く様が目に浮かぶ」
 だが、あくまでもジルの返す声は平坦である。
「呑気に言っている場合じゃないだろ!
 一体どうするつもりだ。
 戦の素人に作戦を掻き回されるのがどれだけ迷惑な事か、お前さんだって分かるだろう !? 」

 そんな事は言われるまでもなかった。
 潤沢な資金で整えられた精鋭部隊と、主人の影で目となり耳となる諜報部隊の齎す情報を最大限に生かし、緻密な布陣で戦に挑むのが、名将・アルテュール=リッシュモンの退いた穴すら埋めると言われた、若き智将のやり方である。
 蛮勇だけで押し切れるほど、イングランド軍は甘くない。

「……隊長。
 確かに乙女は閲兵だけではなく、自ら前線で兵達を鼓舞する覚悟でいるのだろう。
 まったく、凄まじい女だよ」

 自分がこれまで女性というものに抱いていた印象を、この聖女はことごとく覆す。ジルは自らのペースを完全に乱されているというのに、何故だか不思議と心地が良かった。

「だが、いくら聖女様が規格外の存在であっても、作戦の指揮まで天使に学んでいるとは思えん。
 そこはそれとなく、彼女が部隊を指揮しているように我々が見せかけてやればいい。
 かくして、軍勢は不当な侵略を誅する十字軍となる」

 そんな男爵の涼しい顔に、ラ・イールが恨めし気な顔で言い募る。

「だーかーら!
 俺はそれが嫌なんだって―の!
 何だって、俺たちの領域で、女の機嫌を伺いながら、戦の支度を進めにゃならんのだ !?
 俺だけじゃない、前線に出る傭兵共が、形だけとはいえ、女の下について戦うのを本気で良しとすると思うか?
 貴族連中だって顔では笑っていても、腹では何を考えている事か……」

 聖女の前では借りてきた猫のように大人しくしていたくせに。

 とはいえ、確かにそうだろうな、とジルも巨漢の意見には同意せざるを得ない。
 こうして口ではっきり言うだけ、傭兵の連中はマシである。ある意味、金と力さえ示せば割り切りの早い男達の統御は容易い。彼らの信頼が厚いラ・イールがジルと一緒に聖女を担いでくれれば、尚更だ。
 むしろ気位ばかりが高い貴族の騎士達は、自分達の面子ばかりに拘って、余計な所で足を引っ張りかねない。

「……だが、これまでと同じやり方では、いつまでたっても我々はイングランドには勝てん。
 ここにきて、体面ばかり気にしていてどうする。
 そこまで戦うのが嫌なら、こんな名ばかりの宮廷で燻ってなどいないで、とっととブルゴーニュ派に寝返ればいい。
 私はそんな事は御免だ。だから彼女と戦う」

 フランスや王太子にも許された時間は少なかったが、ジル自身に残された時間もそう多くはなかった。

 ──あと何年、自分はこの姿で人目に出る事に耐えられるだろうか。
 もう既に一部の貴族の間では自分の姿の事は噂になっている。『奇跡に触れた男爵』『神に愛された騎士』と。まだ好意的な目で見られているうちはいい。これが何かのきっかけで、『悪魔と契約した異端者』と囁かれるようになったら──

 人を超えた力を得た見返りは、いずれ地獄で払わねばならないだろう。それは覚悟の上だ。
 だが、まだ今はその時ではない。
 この世で何も為さないまま、自分は終わりたくはない──

「あーあ……王太子といい、お前さんといい……ああ公爵もか……どうにかしちまったかねぇ」
 頭をがしがしと掻き毟りつつ、ラ・イールが天を仰いだ。
「……ま、俺もあの聖女様自体はどうにも嫌いになれないから、困るんだけどよ」
 素直な感想に、ジルが笑った。

「たまには女に組み敷かれるのも悪くはあるまい?」
「言うねえ色男。
 骨の髄までしゃぶられて、足腰立たなくしてもらえ!」

 ──実際、あの途方もない女性相手ならば、寝台の上で屈服するのもなかなか魅力的かもしれない。

 小さな顔の下の豊かな胸元やそこから急角度でくびれる胴周り、そこからまた形よく張り出す腰の具合を思い起こし、その穢れの無い身体が一糸まとわぬ姿で己の上に跨る姿を想像しかけて、慌ててジルは咳払いをした。

「冗談はさておき……我々は敬虔なる聖女の騎士だ。
 乙女に恥じぬ紳士でなくてはな」

 あれだけ魅力的な女性なのだ。イングランド軍からはもちろんの事、自軍の兵にも目を配らねばなるまい。不信心な者の中には、神罰が下っても間違いを起こそうとするものがいるかもしれぬ──

 

 

◆◆◆

「──もっとも、貴女を護る傍らで、私自身が一番、自分の中の欲望に懊悩する事になったのですがね」

 どこか寂しげな自嘲の笑みを浮かべて、白髪の青年が零す。
 幾星霜の時の果てに、今は己の名すら失った男は、やがて静かに瞳を閉じ、深々と息を吐いた。

 ──1429年3月6日。

 相次ぐ国難の末、落ちぶれ果てた王国の宮廷に、奇跡の少女が現れた時、フランスと一人の男の運命を変えた。
 約束された邂逅の一瞬、始終昏い陰りに沈み凍えていた孤独な魂に、命の温もりが吹き込まれた。

 そこから、彼女の見果てぬ夢を目指す、青年の永い旅路が始まった。

 一個の人間の感情など顧みられないまま、それは静かに動き出す。
 尽きぬ憧憬と恋慕、深い絶望と悔恨、人間を突き動かす、ありとあらゆる強い感情が吹き荒れる戦いの歴史。
 それは、愛した女性へ捧げる『聖なる怪物』の祈りの全てだった。

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