還り着く場所(1)

「……やっと……やっと貴女にふれる事が出来た……」

 差しのべられた長い指先が、そっと髪に触れると、緩やかに波打つその流れにのって滑り、愛おしげに彼女の輪郭を辿ってゆく。

 懐かしい感触。ランスの地で初めて彼の名を呼んだ時の事を思い出す。
 礼儀知らずにも思わずその名を呼び捨ててしまい、狼狽する彼女を安心させるように、優しく宥めてくれたあの彼の温もりを感じる。
 ただ、その指使いはその時よりもどこか頼りなげで……そして何倍も労りを感じさせるものだった。
 それはとても心地が良くて、思わず瞼を閉じて、されるがままに身を委ねてしまいたくなるが、瞳に映る彼の表情がそれを許してはくれなかった。

 男性、と言うには、まだ幼さの残る端正な顔がごく近くにある。

 長い睫毛に縁どられた、さながら森の奥深くに眠る神秘を湛えた湖水のごとき碧い瞳は、彼の内から抑えようもなく零れる感情に濡れていて、その色の深さを増している。
 震える言葉と共に唇から洩れ出た熱い吐息は、少女の白い頬を優しく一撫ですると、軌跡にそって否応にも淡い紅を刷いた。

 泣き顔と笑顔とが入り混じったその表は、あまりにも儚く、寄る辺のない有り様は、まるではぐれていた母親を見つけた幼子のよう。
 いつになく芳醇な感情に彩られた美貌は、今にも崩れ落ち消えてしまいそうな風情で、目を離す事が出来ず、瞬きすら不安になる。

 出会いから人目を忍びつつ心を通わせ、運命が二人を引き離した後も、何時も祈りと共に見守っていた──そんな少女であっても今のような彼を見るのは初めてで、こうして他者には決して見せてこなかった彼の繊細な表情と視線を独占している事は、たとえようもなく嬉しくもあり、苦しくもあり……その心は戸惑いと高まる『何か』に対する甘やかな期待とにかき乱された。

 記憶にある彼はいつも冷静そのものであり、戦場を駆ける横顔は常に凛と引き締められていて、『英雄』という言葉を全身で受け止めるだけの風格をもっていた。
 だからこそ、歴史の中で彼の真の功績や在り方が人々に知られる事がなくとも、彼女は彼が誇らしかったし、また人の善性を体現するような高潔で不器用に過ぎるその生き様を愛してもいたのだ。

 その彼が──自らと並んで『救国の英雄』と敬われ、同時に『怪物』と忌避される男が、鋼のような意志で永い刻に渡りあらゆる非道や脅威と戦ってきた彼女の騎士が、救いを求めるように細い少女の身体を抱き寄せる。

「……私も……」
 歴戦の猛将と呼ばれるには、あまりにも優美な長身の胸元に手を添えて、少女が応える。
「……私もずっと貴方にふれたかった……貴方にふれて欲しかった……私を感じて欲しかった……」
 それは少女が心に秘めてきた偽りざる本音だった。あのルーアンでの別れから、否、同じ戦場で轡を並べていた頃からずっと──

「……あの日、1431年の5月30日に、〈救国の乙女〉であるジャンヌは天に召されました」
 抜けるように澄み切った蒼穹を思わせる眼差しが、慈愛に満ちて、揺れる碧の視線を優しく救い上げた。
「今、貴方の傍にいる私は、聖女でもなんでもない、ただの人間です。
 身の程知らずにもあなたを愛してしまった……哀れな女です」

 すぐ目の前にあるはずの彼の顔がよく見えない。
 いつしか、少女の目から透明な滴がいくつも頬を伝っていた。

「昔……貴方は私の為に生きると言ってくれました。
 己の全てを賭して愛して下さると。
 私も、貴方に私の持てる全てを差し上げて応えたいのです」

 そんな少女の肩を包み込む腕の力が強くなり、伝わってくる鼓動の音が早くなった。

「私を……受け止めて頂けますか?」

 肩越しに隠れてしまった男の表情は伺えない。だが、彼女に縋る長身が小刻みに震えている。堪えきれなくなった低くかすれた嗚咽が少女の耳朶を打った。

 男もまた哭いていた。その身に受け止めきれないほどの歓喜と、懺悔と、苦悩とがない交ぜになった感情に打ちのめされて。

 

◆◆◆

 

 気持ちよく晴れたある週末の昼下がり。
 それぞれの余暇を楽しむ人々で賑わう街の一画に、そこだけ人払いをしたかのようにぽっかりと出来た空間がある。

 歴史のある港町に位置する海に面したその広い公園では、ちょうどその日、各所で出店や楽師による演奏会、大道芸などが催されていて、いつも以上に人出があったはずなのだが……誰が言うまでもなく、その場所は自然と人々の波が割れて、いくつか備えられているベンチにも誰も立ち寄ろうとしない。

 だが、行き交う人はみな、そこに近づく事は出来ずとも、この異様な光景をまた完全に無視する事も赦されずにいた。
 好奇の視線が交わるその中心、特異点となった公園の一画──古びて色あせた簡素なベンチの一つに、少女がちょこんと腰掛けている。

 艶やかでありながら柔らかそうな亜麻色の髪。長い髪は今は丁寧に結い上げられリボンで飾られており、編んだ先から頬に垂れている後れ毛を指先で弄びながら、彼女は居心地が悪そうに、周囲に視線を巡らせた。

 少女を見た人々の口から次々と「天使だ……」「どこの映画の撮影だろう?」「サインをもらっておいた方がいいかしら」といった言葉が感嘆の溜息と共に囁かれるが、残念ながら彼女の耳には届いておらず、一人連れを待つ間の不安を煽っただけのようだった。

「どこかおかしいところがあるのでしょうか……」

 少女は自分へと向けられる妙な熱を帯びた視線に、蒼い瞳を潤ませて、いよいよ困った顔をした後、何とはなしに手櫛で髪を整えて、次に自分の身に着けている衣服に視線を落とす。

 布地を贅沢に使った絹のブラウスは、街を出歩くにはやや華美で、動きやすいカジュアルな装いが目立つこの公園では余計に浮いていたが、生来の気品と容姿に恵まれた彼女には相応しく、実に様になる衣装である。ハイウエストのキュロットスカートからのびるタイツに包まれた脚線は、露出は皆無でありながら、絶妙な肉付きで腰からショートブーツに包まれたつま先に至るまで麗しいラインを描き、隠しようもない女性的な魅力に溢れていた。

 今回、外を出歩くのにあたってわざわざ用意したものである……寸法はぴったりのものを選んでいるはずだし、何より彼が「とてもよくお似合いですよ」と褒めてくれた服だ。
 それに加えて、何につけ分からない事は自分だけで判断せずに、あらかじめ確認してから行動するようにしているから、特に突飛で不作法な事はしていないつもりなのだけれど……

 衆目を集める事自体には慣れている少女だが、今自分がいるのは、あまりにもかつて生きてきた場所とは勝手が違い過ぎる。
 ここは故郷であるフランスを遠く離れた東の果てにある島国。そして彼女が最期に天を仰いだ日から500年以上が経過した未来なのだ。彼女の中の常識が常識として通用しなくても致し方ない。

 それでも単一民族で構成されているこの国の中では、比較的この港町は自分達の子孫と思われる人々の姿が多い印象を受けるが、何故こうも自分ばかり目立ってしまうのだろう?
 この国は『八百万の神』に守られた神秘の国と聞く。そこに生きる人々は、『いるはずのない人間』の気配にも敏感なのだろうか……

「──お待たせしてしまって申し訳ありません、ジャンヌ」

 ごくごく単純な『異国の美少女』に対する彼らの興味に対して、何やら難しい霊性に対する議論を脳内で始めた少女に、耳慣れた男性の声が呼びかける。

「ジル……!」

 がばり、と音が聞こえてきそうな勢いで、少女が顔を上げる。
 『可憐』としか言いようがない少女の貌が、さらに花開くように、ぱっと明るくなった。

 人々の視線が一時、少女から外れ、彼女の視線を辿るように声の主の下へと滑るように移動し──そのまま釘付けになる。

 そこに立っていたのは、少女以上に浮世離れした若者だった。

 周囲を取り囲む人々よりも頭一つ分以上高い長身だが、あまりにも整い過ぎた容姿は一瞬、性の判断すら迷わせる。
 まず惹きつけられるのは、これほど鮮やかな色があるのかと驚くほど印象的な碧の瞳。すっと通った高い鼻梁。淡い微笑みに魅力的な弧を描く唇。それらが絶妙な配置で収まった白皙の美貌が頂く髪は、これまた新雪のような混じり気のない白色で、身に纏う濃紺のスーツに映え、長く腰まで垂れていた。

 色素の薄い長髪に、少女と同様、銀幕や社交界の饗宴から抜け出してきたかのような豪奢な出で立ちは、取り合わせとしてあまりにも出来過ぎていて、普通であればかえって滑稽に見えてしまうところだが、人々の視線にも何ら物怖じしない堂々とした立ち振る舞いと天上の美貌は、見る者に威厳すら感じさせ、その場の空気すら変えてしまう程、完璧な調和でもってその人物像を構成していた。

「店が想像以上に混んでいまして……退屈させてしまいましたね」

 上品なフランス語を発する喉元と、鼓膜に届く張りのあるテノールの響きをもってして、ようやく『彼』が男性であると確信出来る──まるで神話の時代、雷を操る大神にその美しさ故に天に攫われたという少年が、そのまま麗しく成長し青年として現れたような、超越者の介在を感じさせる芸術的なまでの美しさだった。

 ──最も、当人は『男らしさ』とはほど遠い自分の容姿に少なからずコンプレックスを抱いていたのだが、周りから言わせれば贅沢に過ぎると言われてもしかたあるまい。

 線の細い深窓の令息然とした印象とは裏腹に、芯にある筋肉の強さを感じさせる若者の颯爽としたその歩みに、向かうその先にいる人々が次々に身を退いて、彼が何か言うまでもなく、人垣が開いてゆく。

「……ああ、よかった……もう少し遅かったら、私、ここから逃げ出してしまうところでした」

 自分の姿を認めて、大仰に胸を撫で下ろす少女──ジャンヌに、白髪の貴公子──ジルは「おや」と意外そうな表情を見せた。

「戦場においてあれほど勇敢で、百戦錬磨の傭兵ですら一目置いていた貴女が、このように穏やな憩の場で心細さを感じられるとは……何とも新鮮な事ですね」
 どこか人の悪い笑みを浮かべて自分の顔を覗き込む貴公子に、ジャンヌはむっとして、
「貴方……面白がっていますね……ジル」
「いえいえそんな。
 貴女のまた違った一面を知る事が出来て、純粋に嬉しいだけです」
「……同じではありませんか……」
 少女の恨めし気な視線も意に介さず、落ち着き払った所作でジルは見物人達を一瞥すると、
「とりあえず、ここから移動しましょうか。
 どうも私達は一か所に長く留まると人々の迷惑になるようですので」
 肩をすくめて、少女を促した。

◆◆◆

 

 先刻の場所から公園の中でもとりわけ人気の少ない場所へと気配を消しつつそろりと移動し、二人はようやく一息をつく。

「ありがとうジル。とても美味しいです」
 やはり年頃の娘である。花壇の脇に腰を下ろし、高貴な身の上である若者が自ら並んで購入してきたクレープを頬張るジャンヌの機嫌はすっかり元に戻っていた。時代も場所も関係なく女性は総じて甘いものに弱いらしい。

 その隣でころころと良く変わる少女の表情を見つめるジルの表情は限りなく優しい。今の彼の姿を見て、かつてのフランスにあって知勇兼備の猛将と畏怖され、元帥の位まで上り詰めた武人だと看破出来るものはまずいまい。

 それは同時に今彼に無邪気な笑顔を見せるジャンヌについても言えた。
 『オルレアンの乙女』……イングランド軍を撃ち破り、実母に嫡子である事を否定された王太子をランスにて戴冠させ、窮地のフランスを救った奇跡の少女。
 フランス軍の尊崇を一身に受け栄光を極め、やがて魔女として処刑されるという悲劇で人生の幕を下ろした彼女であったが、この時代では教皇庁からも正式に列聖を認められたまごうことなき聖女である。

 今となっては史書によって語られるだけの、『いないはずの人間』……その二人がこうして平和な時代でのんびりと物見遊山を楽しんでいるのは、ひとえに偉大な神が起こした気紛れのおかげに過ぎない。

 おそらく、目が覚めれば消えてしまうであろう、あるいは自らの末期の瞬間に見えた、泡沫の幻、刹那の光、夢の世界──それでも構わない。
 今の自分にとって、この瞬間の輝きが全て。存分に夢幻の波間に溺れようではないか。
 彼女が元気な姿を見せてくれるだけで、こうして自分は満たされる。それ以上は──罪深い我が身には過ぎた望みだ。

「御存知ですか?ジャンヌ。
 そのクレープという菓子は、元は私の領地のあったブルターニュ地方の郷土料理なのです」
 そんな自らの思いは微笑みの下に隠したまま、ジルはジャンヌに語りかける。

「あら、そうなのですか」
「はい。
 現在のクレープはこうして小麦粉を使ったものが主流ですが、起源はガレットと言って、そば粉を水と塩で混ぜたものを石の上で焼いてパンの代わりに食したのが始まりだと言われています。
 今でもガレットはガレットで食されているのですが、この料理がフランス全土に始まり、世界に広まったのは、ヴァロワ朝の後に起こったブルボン朝の王妃である女性がブルターニュを訪れた際、いたくこの料理を気に入って宮廷料理として取り入れた影響が大きいようですね」

 ジルの視線が少女の手元を外れ、海の方へと向けられる。その目は水平線の彼方、見えぬ故郷を幻視するように細められる。

「ブルターニュは今でこそフランス最大の農産地ですが……開拓前は土地も痩せていて気候も涼しく、日照時間も少ない場所でしたから……小麦の生産が困難で、ワインですら南部の一部でしか作れません。
 最も、私自身がそうした所領の風土を実感する機会は、あまりなかったのですが……」

 ジルの脳裏にかつて城の塔から臨んだブルターニュの風景が浮かぶ。眼下に広がるヒースとムーアで覆われた荒涼とした大地。ケルトに伝わる妖精が潜んでいそうな広大な森には、よく父が狩りに出かけていた。

 そこに生きる民の存在に思いを馳せた事はあったが、当然直接触れる機会はなく。一方、大貴族であるラヴァル家──後に複雑な経緯を持ってレイ家の家門を継ぐ事になったが、そこでの暮らしはあらゆる面で恵まれていた。
 食卓では常に小麦のパンが供されたし、ワインも当時は贅沢品であった香辛料を入れたものを好んで飲んだ。ワインについては家畜の生血を混ぜるのに匂いを誤魔化す意味もあったのだが……まあ何にしろ、およそ生きる為に苦労するという経験を自分はしてこなかった。

 生まれた落ちた時から約束された莫大な富、恵まれた容姿、優れた知性、馬術や剣術の才能──誰もかれもが羨望の目で己を見る。主君であるシャルルですら平静と寛容を装いながら、胸の内には激しい嫉妬を隠していた。

 だが、これまで神の寵愛を受けた生であったはずなのに……ジルの心は物心ついた時からどこか虚ろで、あらゆるものに対する執着がなく、生に対する手応えのようなものを感じられずにいた。
 城に並ぶ職人の技が集約された素晴らしい調度品の数々も、遠くシルクロードから取り寄せた芳しい香も、頭ではその価値を理解する事は出来たのだが……彼を真に感動させるには至らなかった。

 ただ、ただ、うつろいゆく全てがむなしい──何故、これほどまでに自分の感情は希薄なのか。

 表面ではラヴァル家の嫡男として、父の跡目を継いで立派な領主になろうと努力をしてはいたが、いかほどの努力の成果があろうとも、それによって周囲がどれだけ彼を褒めそやそうとも、彼の心が満たされる事は無かったのだ。

「……ジルは、ブルターニュに……故郷に帰りたいのですか?」

 遠くここではない場所を懐かしむように語る生粋の貴族である青年に、少女が静かに問う。
 ジルは口元に自嘲の笑みを浮かべながら、頭を振った。

「いえ……もうあの地には私に所縁のあるものは何も残ってはいませんから……あるとしたら、不名誉な人食い鬼の伝説だけですよ」

 青髭──『救国の英雄』と呼ばれ、元帥にまで栄達しながら、晩年血に飢えた殺人鬼として処刑されたジル=ド=レイ男爵。
それが政治的な思惑や個人の悪意によって着せられた汚名であり、社会から抹殺された彼が、実はその後幾世紀もの間、孤独な戦いをしてきた事実を知る者は少ない。
 シャントセ、マシュクール、そしてティフォージュにプゾージュ──かつて権勢を誇った城塞も全て崩れ落ち、一族の血もとうの昔に途絶えている。
 長い時を経て様変わりした故国は、彼にとってもはや異邦の地と変わらない。

「私が帰りたいと思うのは……貴女の下だけです。ジャンヌ」

 透徹とした碧い瞳が、少女に訴えかけるような切実な光を帯びて向けられる。

 何もかもが自分をすり抜けていく……自分には何も残らない……
 こんな自分は一体、何の為に生まれてきたのだろう?何の為に生かされているのだろう?

 ──帰りたい。
 いつしか唇をついて出るようになった言葉。

 ──帰りたい。ここではない、どこかへ。
 その想いは常に彼の心を占めるようになっていた。

 そしてそこがどこかは分からないまま、人知れず理解されないであろう苦悩を抱えて生きてきた青年が、生まれて初めて、自らの意志で欲したもの──この命の全てをかけても良いと駆り立てたもの。

 それが神に遣わされた聖女──彼にとって生涯ただ一度であろう、狂おしい程の慕情を抱いた目の前の少女の存在だった。

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